第2話 新物質騒動と謎植物の萌芽
翌週の放課後、藤堂省三は再び化学部の扉を開けることになった。
独特の薬品臭が鼻をつき、部屋の奥からは小さな熱風が流れ込んでくる。
先日、散々な目に遭っただけに、少しは落ち着いているかと思いきや――その期待はすぐに裏切られる。
「先生、すみません。ちょっとシルビアの試作品を加熱していたら、思った以上に反応が強くて……」
最初に声をかけてきたのは、黒髪をさらりと伸ばした三津谷知久だ。
やや長めの前髪がきっちり整えられており、今日も白衣を無駄にカッコよく着こなしている。
部長としての責任感が強いのか、うっすらと汗を浮かべながらも部員たちに指示を飛ばしていた。
その手元には、明滅する青白い光を放つ物質――“シルビア”と名付けられた試作品が、まだかすかに熱を帯びているように見える。
「まさか爆発したのか?」
藤堂が思わず顔をしかめて問いかけると、三津谷は首を振る。
「いえ、爆発まではいってません。ただ、想定より発熱したせいで、空気清浄フィルターが溶けかかってるみたいです」
「溶けかかった……? そんなに高温に? こりゃもう危険域だろう」
藤堂が換気扇の方を見ると、フィルターのプラスチック部分がぐにゃりと変形してしまっていた。
まるで熱で溶けたチョコレートのように垂れ下がっていて、まともな換気ができない状態だ。
「やべえ、本当に曲がってるし。これじゃ部室が化学工場みたいな空気だよな」
ゴーグルを頭にかけ、短い黒髪が一部ペシャンコになっている北條直人が、慌ただしく立ち上がる。
彼の白衣にはいつもと同じく茶色い焦げ跡が点々と付着しており、その細身の体に見合わず、どう見ても安全を軽視しているようにしか見えない。
「ついでに言うと、俺の装置も熱がこもってて、あと一息で常温核融合が起こりそうな気がするんだけど」
「北條くん、いつも“起こりそうな気がする”で終わってるけど、本当に起こったらどうなるわけ?」
背中まで伸ばしたストレート黒髪をきっちり束ねた結城友梨が、冷静な口調で問いかける。
身長165は越えているらしく、スラリとした立ち姿が目を引く彼女は、どこかお姉さん然とした落ち着きがあった。
「そりゃあもう、核融合が実用化されたら世界平和よ。エネルギー問題は解決ってわけさ」
「ええ……まあ、そう簡単じゃないでしょ」
結城が呆れたように笑うが、その口調は少し優しい。
北條は誇らしげに白衣の袖を引っ張りながら、また装置に向かおうとする。
その奥で、小柄な桐島奈緒が慌ただしく鉢植えを動かしている。
ふんわりとした茶色寄りのセミロングヘアは少し内巻き気味で、身長156センチほどの体格をさらに小さく見せる。
しかし彼女の足元を見れば、凄まじい勢いで伸びたツタが柱に絡みつき、まるでジャングルのようになっているのがわかる。
「ちょっとやりすぎたかもしれません……前から育ててたポトスが急に伸びて、ついでにベンジャミンも負けじと伸びちゃって……」
植物の青々しい匂いとともに、エプロンに付いた土の汚れが目に入る。
ほんわかした雰囲気を漂わせる桐島だが、やっている研究はなかなか過激らしい。「ほんとにどうするつもりだ? これじゃ廊下まで緑化されそうだぞ」
藤堂が眉をひそめると、桐島はエプロンのポケットからハサミを取り出して、ツタをさくさくと切り始める。
「大丈夫、大丈夫……酸素が増えるからいいですよ、なんて冗談は置いといて、ちゃんと鉢植えに収める予定ですので」
そのとき、パタパタッという小走りの足音が聞こえ、少し癖のある黒髪の江夏颯太がキャタピラ付きの扇風機を転がしてきた。パーカーを羽織った華奢な体格の彼は、小動物っぽく目を輝かせている。
「すみませーん、ちょっと自律型扇風機のテストをしたかったんだけど……」
操作を誤ったのか、扇風機が植物のツタに引っかかってぐらぐらと横転し、盛大に机の角にぶつかってしまう。
「うわっ! モーターが逆回転してる! センサー設定がバグってるのかも」
「江夏くん……またトラブルメーカーか」
結城がため息まじりに眉を下げるが、江夏は指先でリモコンを忙しなく操作する。
修理しているというより、彼独特の芸術的ひらめきで何とかしようとしているのだろうか。
「危ない! 三津谷のオクタヴィアが転がってる!」
結城がとっさに声を上げ、机の端に置かれていた黒いガラス状の試験体を、ぎりぎりのところで支える。
「ありがとう、結城」
三津谷は冷や汗をかきながら、相変わらずクールな表情を崩さずに頭を下げる。
長めの前髪をさらりと流し、メガネをかけていたら本当に研究者みたいだが、そもそも熱でフィルターが溶けるという大トラブルを起こしている以上、彼も対岸の火事ではない。
しかし、事態はさらに悪化していった。
扇風機が思わぬ風を送り込んだせいか、突然、ゴウンという大きな音が部屋中に響き、空気清浄機のファンが止まる。
フィルターが歪み、モーターが過負荷に耐えきれなくなったのだろう。
「ちょっと、換気できてないんじゃない?」
結城が周囲を見回すと、藤堂も焦りを隠せず顔色を変える。
部屋に漂うのは、熱による化学臭や植物からの青い香り、何がどう混ざり合っているか見当もつかない空気だ。
「やばい……下手に窓を開けたら廊下に漏れるぞ」
藤堂が困惑気味に言うと、控えめに柿沼隼人が手を挙げた。
眠そうな目を半分開き、前髪をくたっとかき上げながら、いつものマイペースな口調を崩さない。
「すみません、実は僕、AIに植物の成長促進プランを作らせたんですよ。桐島さんが参考にしてくれて……想定外に急成長したんだと思います」
「そんなの言ったっけ?」
桐島が小柄な体を一生懸命伸ばしてこっちを向く。
「うん、面白いデータが出たって言ってたから、ちょっと試しただけなんです。栄養溶液の調合をAIの提案通りにしたら、爆速成長ってわけで……」
「柿沼くん、AI実験レシピが出したトンチキな極端値をそのまま信じるのはやめてよ。見極めが必要だって、いつも言ってるでしょうに」
結城が苦笑いするが、柿沼はパソコンを見つめたまま
「この発想は面白いんですけどね」とつぶやく。
すでに部室は酸素過多かどうかはともかく、空気が妙に重苦しい。
試薬と植物の匂いが混ざり、扇風機はバラバラとカタカタ音を立てている。
そこで三津谷が冷静に決断する。
「よし、とにかく換気扇は一度止めよう。熱源が多すぎるから、シルビアは冷却水につけて温度を下げる。桐島さんはツタを切って、樹液が漏れないようにして」
「はい、わかりました」
桐島はエプロンのポケットからゴム手袋を取り出し、ツタを丁寧に剪定していく。
その姿は柔らかな雰囲気そのままだが、バイオ関連の知識に関しては誰より詳しいらしい。
結城は結城で、床に落ちかけたラベル付きフラスコを回収したり、北條の常温核融合装置が巻き込まれないように細心の注意を払ったりと忙しい。
「北條くん、やっぱり今日は核融合のスイッチを切ったままでいて。装置ごと運んでもらってもいいかな?」
「えー、もう少しで常温核融合が……」
「発火寸前の植物と常温核融合を同時進行は無理でしょ」
さすがに結城が強めの口調で言うと、北條は唇をとがらせつつも渋々装置を片づけ始める。
江夏は扇風機の動力部をばらし、強引にモーターを直結モードに切り替える。
「手動モードにしました。とにかく風を送って熱を逃がしますね」
「そっちも下手に暴走しないように……」
藤堂が苦々しい表情で見守るが、江夏の中性的な顔立ちはいたって真剣。
指先で配線を素早く繋ぎ替えながら、「ちょっとだけ我慢してくれよ」と扇風機に囁いている。
こうして十数分ほどの大騒ぎの末、何とか部屋の熱気は落ち着きを取り戻し、溶けかかったフィルターからの排気も最低限は機能し始めた。
ツタを切り落とされた植物はエプロンの中でおとなしく、シルビアは冷却水に浸され、オクタヴィアと呼ばれる試作品も封印された形になっている。
「いやはや、すごい騒ぎだったな……みんな、お疲れさま」
藤堂が額の汗をぬぐうと、桐島が気まずそうに声を出す。
「柿沼くんのAIレシピを私がちゃんと精査すればよかったです。こんな爆速成長しちゃうなんて」
「まぁ面白いデータ取れたんだし、これはこれでありだと思いますよ。いつかちゃんと制御できれば人類のためになりますから」
柿沼は眠たげな目をこすりながらも、少し誇らしげだ。彼のパソコン画面にはまだいくつかの警告メッセージが表示されているが、その一方で新たな解析結果も出てきているらしい。
部室の片隅にはまだ崩れたフィルターや散乱したコードが残っているが、部員同士で声を掛け合いながら片づけを始めている。その光景に藤堂はほっとした表情を浮かべると同時に、「そう簡単に波乱は終わらないだろうな」と直感する。
だが、これも化学部の日常なのかもしれない。
溶けかかったフィルターの隙間から涼しい外の空気が入り、微かに残るシルビアの青い光が壁にぼんやりと模様を映し出す。騒ぎのあとの静けさが、逆にどこか不思議な雰囲気を生み出していた。
「みんな、ちゃんと事後処理してね。私はフィルターを職員室に掛け合ってみるから」
藤堂がそう言い残して肩を回すと、三津谷が「部長としても管理を徹底します」とあらためて頭を下げる。
皆それぞれに過激な研究を抱えながらも、声を掛け合い、すぐに協力して収拾を図る姿を見ていると、混沌の中にも彼らなりのルールがあるようだった。
「まぁ、一つ教訓が増えたわけだし……」
結城がうっすら苦笑して、小さく伸びをする。背筋を伸ばした彼女の黒髪は、白衣の上をさらりと滑るように揺れる。
「結城、さっきはありがとう」
三津谷が控えめに感謝を述べると、結城はさりげなく微笑み返す。
「ううん、こちらこそ。みんながヒヤヒヤさせてくれるおかげで、退屈しないわ」
その視線の先では、北條が装置を片づけながら「次は絶対に核融合起こしてみせるんだ」とつぶやき、江夏は扇風機を分解しながら「廊下走行をもう一回やってみたいなぁ」と夢想している。
桐島はツタの切り口をガーゼでくるみ、柿沼はパソコンのコードを引き抜いて再起動準備を始める。
部員それぞれが、自分の研究へ歩みを進める背中に、不思議なエネルギーを感じずにはいられない。
藤堂はそんな光景を見つめ、「混沌としてるけど、ちょっと頼もしい」と苦笑いしつつ、部室から漏れる陽光に目を細めた。
溶けかけのフィルターが必要以上に呼び込んだ空気が、未来への風も同時に運んできているような気がした。
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