化学部、爆走ラボライフ!

三坂鳴

第1話 ようこそ、混沌の化学部へ

新学期の始業式が終わったばかりの午後、化学準備室と書かれた扉の前に立った藤堂省三は、教員生活十数年のキャリアを誇りにしながらも、どこか気後れしていた。

新しい赴任先で化学部を受け持つと聞いたときは「まぁそんなものか」と思っていたが、噂によればこの部活は一筋縄ではいかない連中が集まっているらしい。


「おじゃましますよ」

誰にともなく声をかけながら扉を開けると、鼻をかすめる薬品の匂いとともに、棚に並んだガラス器具や無数のフラスコが目に飛び込んできた。

その奥でなにやら混ぜ合わせる音がする。妙に活気があるな、と感じながら部室の真ん中に立つと、サラサラの黒髪をやや長めに伸ばした男子生徒がこちらに顔を向けた。

身長は170後半くらいで、落ち着いた雰囲気を漂わせている。何より、白衣がやけに似合っていて、研究者めいた印象を受ける。


「新しい顧問の先生ですね。三津谷知久です。部長です」

その男子生徒――三津谷が試薬瓶を両手に抱えながら事務的に名乗った。

彼はクールに見えるが、どこかガラス器具に対して愛着でも持っていそうな眼差しを向けている。

その背後、机の上にはやたら蛍光色に輝く液体を満たしたフラスコがずらりと並び、それぞれに「シルビア」や「オクタヴィア」といったなぜか人名のラベルが貼られている。


「……ずいぶんユニークな名前を付けるんだな」

藤堂が驚きを隠せず声をかけると、三津谷は目を伏せて、小さく息をつく。

「実験試料を管理するために、いくつか愛称をつけているんです。僕なりのやり方でして……意味のない名前ではありません」

その声色には、彼なりのプライドがにじむ。黒髪を指先で整えつつ、淡々とフラスコを扱う姿が、いかにも「化学部部長」らしい。


三津谷が「愛称」と呼ぶこれらの物質は、彼が独学で学んだマテリアルインフォマティックスと呼ばれる手法を駆使し、AIに大量の化学データを学習させて合成した試作品だという。彼の細身ながらもきちんとした姿勢や、透き通るような指さばきが、この奇妙な発光を放つ試薬を扱う様子にさらなる神秘感を加えている。


その三津谷の話を半ば聞き流すように、もう一人の男子生徒がゴーグルを頭に乗せ、配線だらけの装置を囲んで悪戦苦闘していた。彼は短めの黒髪を、いつもゴーグルで潰しているらしく、頭の上がペタンとへこんでいるのが目につく。そこそこ細身な体格ながら、やけにエネルギッシュで、白衣の端には焼け焦げが何カ所もある。


「もう一度スイッチ入れれば、今度こそ核融合が起きるかもしれない!」

その声を発したのは北條直人。彼が挑んでいるのは、かつて研究者たちを熱狂させながら論争に終わった“フライシュマン=ポンズ型”の常温核融合実験に近い。重水(D₂O)と特定の水素吸蔵金属(パラジウムやニッケル合金など)を用いて、異常発熱が起きないか確かめるというやつらしい。北條の装置は、金属電極が浸ったデカいビーカーに電圧パルスを与える仕組みになっている。彼のこだわりは、AIどころか自分の勘やら工夫で配線を組み、パルス生成回路を複数重ねて“絶妙な周波数”を探り当てようとしている点にある。


とにかく熱意のかたまりのような彼は、常温核融合を追い求めているらしい。

「北條くん、またそんな無茶して……危ないんじゃないか?」

藤堂が思わず声をかけると、北條は振り返ってニヤリと笑う。

「先生、常温核融合が成功すれば、世界が変わりますよ。実験のリスクとロマンは表裏一体、というか……」

完全に目が輝いている。彼が使い古した配線をゴソゴソといじるたびに、周りの空気がぴりっと引き締まるのを藤堂は感じた。どうやら本当に何か爆発しそうな雰囲気がある。


部室の奥には、小柄な女の子がエプロン姿で鉢植えを並べている。茶色寄りのセミロングヘアを内巻きにし、柔らかな印象の丸顔で、何やら温和そうだが――ふと見ると、その植物の蔓が棚に巻きつき、先端の棘のような部分が怪しくうごめいている。彼女が桐島奈緒らしい。

「桐島……その植物、また伸びすぎてないか?」

三津谷がちらっと視線を送ると、桐島は「大丈夫ですよ。ちょっと栄養が多めだっただけで」と笑う。

だが、鉢の中の茎は一週間で倍以上に伸びたというから、とても普通ではない。


もともとはポトスやベンジャミンなど一般的な観葉植物だったのだが、彼女は大学の論文を読みあさって「高効率で光合成できるように遺伝子を書き換えられないか」と考え、葉緑体関連の遺伝子をコツコツ組み替えているらしい。

単に光合成効率が上がるだけならまだ可愛げがあるが、彼女の研究はどうにも行き過ぎがちで、成長速度までも急激に高まるよう改変してしまったようだ。

彼女の人懐っこい笑顔からは想像しにくいが、遺伝子操作だのなんだのを穏やかな声で口にするところを見ると、相当大胆な研究をしているのは間違いない。


「酸素だっていっぱい出るし、将来的には砂漠緑化に役立つかもしれないんです」 桐島がそう言うと、北條が鼻をすすって、

「俺の核融合が成功すればエネルギー問題が解決するし、桐島の改造植物が広がれば環境問題も解決。やっぱ俺たち最強じゃない?」

「そ、そんな簡単な話じゃないと思うけど……」

桐島は苦笑しながらも、ちょっと嬉しそうに微笑む。柔らかい雰囲気はそのままだが、植物を抱えている姿には妙な迫力がある。


「その先端の棘大丈夫なの?」

三津谷が指摘すると「毒はほんの少ししかないから、触ったら即危険ってほどじゃないですよ」

屈託ない笑顔で彼女はほほ笑む。

数日前には栄養溶液を誤って濃厚にしすぎたらしく、わずか1日で背丈ほどに成長した芽が出現して周囲を驚かせたのだという。顧問の藤堂も早急に育成スペースの拡張を検討しなくてはならず、頭を抱える材料がまた一つ増えた。


「なんだか、いろんな分野が入り乱れてるんだな」

藤堂が苦笑しながら部室を見渡すと、今度は奥の方でトーチカのように積まれた家電パーツを抱え込んでいる男子生徒の姿が見えた。少し癖のある明るめの黒髪にパーカー姿、その手先は細長い指で小さなパーツをいとも簡単に扱っている。

彼は江夏颯太、部内で“魔改造の名手”として恐れられているらしい。


「先生! ちょうどいいところに。これ見てくださいよ。自律型扇風機の試作品なんです」

江夏は中性的な顔立ちで、やや小動物的な愛嬌を持っている。はしゃいだ表情で藤堂を呼び寄せる。

「そこに温度センサーと赤外線センサーを付けて、自分で動く扇風機にしたいんですよ。まだ暴走しがちだけど、そのうち廊下を自由に駆け回る日が来るかも」

「できれば廊下を“駆け回らない”方がありがたいんだけどね……」

藤堂が思わず口を押さえると、江夏はいたずらっぽく笑う。


扇風機の制御には進化的アルゴリズムの一種を取り入れていて、プログラムが自己学習しながら「誰が一番暑がっているか」や「どこに風を送れば効率的か」を推論するようにしたいそうだ。

いまはまだ試作品で、しょっちゅうセンサーからの情報が誤作動を起こしてモーターが空回りしている。

それでも江夏は「高校の文化祭までには完全自律化したい」と意気込んでいる。

少しでも面白そうなものがあればガンガン作り始めるアーティスト気質が、この部室の混沌に拍車をかけているようだ。


「ふーん、また妙な機械が増えてるじゃん」

見ると、柿沼隼人が眠そうな二重まぶたを半開きにしながらノートパソコンを抱えて江夏を見ている。

やや色素の薄い黒髪を、くたっとした仕草でかき上げる姿が印象的だ。

机の上にはコードやケーブルが散らばり、画面には複雑そうなプログラムが並んでいる。

プログラミング言語はPythonやC++だけではなく、機械学習フレームワークの拡張版を組み合わせて使っているらしい。

研究室レベルで開発されている分散コンピューティング対応の“試作版”をどこかから入手したという噂まである。


「柿沼くん、またAIに何かやらせてるの?」

江夏が興味津々でパソコンをのぞき込みそうになると、柿沼はぽつりと口を開く。 「うん、ちょっと自動実験プランを最適化してもらってるんだ。でも、センサー初期値がバグってるせいか、やたら危険な実験が提案されて困ってるんだよね」

彼は「AIを使って実験プランを最適化する」という独特のアプローチを取っている。具体的には、温度・湿度・酸素濃度・気圧・薬品の蒸気濃度などの“環境データ”をセンサーネットワークや既存の実験レポートから大量に取り込み、それを元にした数値シミュレーションを行おうとしているのだ。


「危険な実験、って……この部にこれ以上ヤバいネタは要らないってば」

江夏が苦笑するが、柿沼はマイペースに「でも見てみる?」と返す。

彼の手先はきれいで、パソコンのキーボードを打つ姿はまるでピアニストのように滑らかだが、そこに何が記されているかはわからない。

本当に、とんでもないレシピを生成してしまう副作用があるらしい。

どうやらセンサーの初期値や部室内の試薬蒸気量がリアルタイムに変化しすぎて、プログラムが混乱を起こしている状態を指しているようだ。

実際、ほんの少し設定をミスすると「高温高圧下で青酸ガスが発生するかも」というとんでもない警告を吐き出すため、藤堂としては頭が痛い話でしかない。


「まったく……」

藤堂は白衣を整えながら、部屋の真ん中で立ち尽くす。何もかも想像以上だ。目をやれば、奥の方で桐島の植物が棚を這っているし、北條の装置は相変わらず電気パルスを吐き出しそうだし、江夏の自律型扇風機は無邪気にモーターを回転させている。柿沼のAIがさらに謎のレシピを引っ張り出す可能性もある。しかも、部長の三津谷が合成している不思議な試薬は一目で危険な匂いを放っている。


そのとき、ふっと扉が開き、背中まで伸びたストレートの黒髪をきちんと束ねた女子生徒が入ってきた。高めの身長と整った制服姿が印象的で、やや大人びた雰囲気を醸している。彼女は結城友梨らしい。

「皆さん、もう少し足元を片付けてください。先生が困ってるじゃないの」

結城は淡々とした口調だが、その声には説得力がある。年下の部員たちは「はーい」と素直に応じている。

「結城、ちょうどよかった。先生もまだ状況を把握しきれてないみたいだから、案内してあげてよ」

三津谷が部長らしく、結城に助けを求める。彼女はうなずき、軽く藤堂に微笑んだ。


「先生、ご迷惑かけることが多いと思いますが、この化学部は基本的には仲がいいんです。……ただ、ちょっと研究が過激なだけで」

結城は軽く肩をすくめるが、その瞳は頼もしさを感じさせる。

彼女がいてくれるのならば、何とかなる気もしてくる。

藤堂はようやく息をつき、「そうだな、まずは安全管理から始めよう」と真顔でつぶやいた。

それを聞いて、部員たちは一斉に振り返る。


「安全管理って、どうするんですか? あ、私の植物は危ないかな……」

桐島が不安そうに質問する。ふんわりした声調だが、けっして他人ごとではないらしい。

「いや、危険かどうかは今後の扱い次第だろうけど……まあ一度、研究内容を整理してレポートにしてくれないかな」

「了解です! じゃあ、あとで試験管と培養液の成分表まとめます」

桐島はぱっと顔を輝かせ、鼻歌まじりで鉢植えの位置を動かし始める。

小柄な体からは想像つかないくらいパワフルで、彼女のエプロンからは土や葉の匂いがほんのり漂ってきた。


「俺も……装置の配線図、ちゃんと書き直すか。ゴーグルも新調しておきたいし」

北條が意気込んで宣言するが、焦げ跡だらけの白衣を見ていると、藤堂は胸騒ぎを抑えられない。


そんなこんなで、すでに部室内は再びバタバタし始めた。

柿沼のノートパソコンには“環境データを再収集しています”というメッセージが表示され、江夏は扇風機のキャタピラを外してガタガタ音を修理している。

三津谷は“シルビア”と名付けた発光試薬を大事そうにフラスコへ戻し、結城は「まずは道具の整理から!」と後輩たちに声をかける。


奇妙でちょっと危うい空気に包まれたこの化学部。

藤堂は、かつて自分が研究室でやんちゃしていた頃を少し思い出す。

「まぁいい。こういうのも悪くはないさ」と白衣の袖をまくる。

緊張と期待が入り混じる感じが、彼の胸に少しワクワクを呼び起こしていた。


「よし、覚悟を決めるか。始まったばかりだし、最初から怖気づいてられないからな」

藤堂の言葉に、部員たちはそれぞれの思いを胸に頷いてみせる。

にぎやかすぎる化学部の一日が、学校の静かな日常をどこまで塗り替えていくのか。既にスパークを孕んでいるその光景に、教員生活十数年の彼も胸を弾ませてしまうのだった。

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