第42話

藤「自ら死を選ぶほどの勇気があるならば、私とともに生きてほしい―――“文姫”」

由『………』

藤「あなたは汚れてなどいない!」



耳元で突然ささやかれた封じ名に驚いて視線を動かすと、すぐそこに弘の笑顔が見えた。

あぁそういうことか、と悟る。


封じ名は、誰彼構わず知って良いものではない。

縁を結ぶべき特別な相手のみ。

…でも、神祇官の跡継ぎがそう判断したのなら、それは何よりも信頼に足る…






弘「ねぇ由。この扇を覚えていて?」

由『これは…確か、父上の…』



古い扇の表面に読み取れるのは、懐かしい筆跡で書かれた丁寧な4文字。



由『基、秀、明、文…』



童女のように澄んだ声で、由姫がゆっくりと読み上げる。



弘「そう、私たち4人の封じ名よ。きっと私たちがともに遊んでいた幼い頃に、それぞれのお父さま方が教え合われたに違いないわ」



そこに込められたのは、親としての願い。

乱れる世に生を受けた4人の行く末が、それでも幸せなものであるようにと。



由『そうね…きっとそうね』






涙する由姫の背に手を伸ばしかけた弘が、ふと気づいて若宮にその場を譲る。

…若宮は、ここに至るまでの一部始終を思い出していた。


「由姫の封じ名をお教えしましょう」と言った時の、力強い弘の瞳。

伊勢へ向かうと言う自分に対し、「身分を考えろ」と叱りながらも、結局は送り出してくれた父帝。

そして全てのお膳立てをしながら、決して出しゃばることなく動いてくれた升。



藤「都へ帰ろう、由姫」

由『ええ…はい』



泣きながら、笑いながら返事をするその顔が愛しすぎて、思わず戯れのように問う。



藤「何だ?まだ何かあるのか?」

由『いいえ、ただ嬉しいだけ。…名前を呼ばれるだけのことが、これほど嬉しいなんて…』



いくら呼んでほしくても、もう自分にその資格はない。そう思っていたのに。



藤「…そうか」

由『ありがとうございます。命ある限り、私はあなたに付いていきますわ』



全ての恩に報いる方法はただ一つ。

幸せになること。

ふたり、もう二度と離れないことだ。



それは、いつか忘れかけた歌にも似た…





―――割れても末に、会わむとぞ思ふ…。

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