第33話

弘「答えて頂けないと分かっていながら、それでも尚、心の中でこの御名を呼ぶことは止められなかった…」



幼い頃から控えめに、しかし確実に弘への気遣いを見せていた升。

ここで彼が部屋を出て行ってしまえば、もはや容易に会うことは出来なくなる。


いや、それだけではない。

これから先陣を切って動乱に飛び込もうという、近衛大将家の息子―――

万一のことがあれば、二度と相まみえることはないかもしれないのだ。



弘「お慕いしております。秀夫さま」



真剣な瞳でそう言った弘が見たのは、さらに真剣な…いっそ冷酷ともとれるほどに乾いた視線であった。



升「…気の迷いでいらっしゃいましょう。あの時お救い申し上げたのが、たまたま私であったから」

弘「たまたま…?そんな…あれは偶然だったと仰るのですか!?」



青い絹織、廊下についた白く細長い指、轟音とともに崩れる天井―――

炎に包まれた増川邸は、それでも懐かしい。



弘「あなたが言ってくださったのではありませんか!名誉のために死した私よりも、生きて笑う私が良いと!」

升「……………」



升は、この暇乞いの直前に、ひそかに決意を固めていたのだ。

これから死ぬかもしれない自分。

直属の近衛隊から反逆者を出してしまったという事実に対する、大きな自責の念。


そして何より、大切な仲間である由姫を奪われてしまった自分の甘さ…

弘とこうして話している今ですら、内心は羞恥と詫びの思いでいっぱいなのだから。



弘「…本当に、それだけだったと仰るのですか。私のために命を賭してくださりながら、拒まれると?」

升「緊張や混乱を共に味わった者同士は、それを恋情と勘違いしやすい」

弘「そんな…!!」



…どうか私を憎んでください。

身勝手な男だと、軽蔑してください。



升「もとより、いくら近衛大将家とはいえ、武士と神祇官家の姫君では釣り合うはずもない間柄…」

弘「私は姫ではない!それはあなたが一番よく知っておられるであろう!」

升「そのような御簾の向こうに居るなら、男も女も同じこと!…将来、あなたが神祇官として生きてゆかれるなら、尚更だ!」



弘の瞳からとめどなく涙が溢れる。



升「………私のことはお忘れください。もう、こちらには参上いたしません」



去り際、升はかたく目を閉じたままだった。

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