第32話

藤「よいか升。由姫の探索と並行して、内通者をあぶり出すことも忘れるな。おそらく幕府側も、こちらがそれぐらい見抜くことは想定済みだろう」

升「その上で、皇族の権威をこれ以上貶められたくなければ…という取引を持ち出してくるでしょうな」

藤「…わかっているなら、早く行け」



微笑む主を見て、升は不意に泣きたくなった。

本心では、自ら先頭に立って由姫を探したいところだろうに…

弘のこと、そして自分のことにまで、行き届いた配慮をしてくれる若宮。


古来より、近臣に目をかける皇帝は、それと同等以上の慈しみをもって民へ接すると言われる。

上に立つ者としての理想が、そこにあった。







御所内の一室を与えられ、升は慌ただしく諸々の準備を始める。

体調が本復しない帝にかわり、総指揮をとる若宮。

そして―――


升「弘さま」


祈祷や占術をはじめとする儀式、そこから派生する人間関係の機微に長けた弘は。


弘「…升の君…」


対幕府の外交の要として、御所の奥深くに匿われることとなった。

男装のままではあるが、増川家・直井家のわずかな遺品を御簾の内に運び、若宮などのごく限られた人々以外とは交流を持たない隔離生活に入る。



升「お別れのご挨拶に参りました。私はこれから当分の間、自邸を足場に動く予定です。どうかあなたは、こちらでお静かに過ごされますよう」



それが、弘の安全のためだから。

若宮の心の安らぎのためだから。

弘は小さく頷き、懐から古びた扇を取り出した。



弘「私が直井家に身を寄せた際、大臣から頂いた扇です。あの子が見つかった暁には、これを渡してあげて。…今となっては、御父上の唯一の形見だから」

升「わかりました。必ず」



言葉が途切れる。

沈黙が恐ろしくて、弘は必死で何か言うべきことを探そうとするが。



升「ではこれで」

弘「あ、お待ちを!秀夫さま!」

升「…どうして、私の封じ名を?」

弘「私は、神祇官家の人間ですから…」



“封じ名”とは、身分高い人々が魔除けのために生まれたばかりの赤子に付けるもの。

御所や神祇官にのみ届けておいて、婚姻や養子縁組などの際に使われる名前だ。

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