「独立」

 東京都板橋区の廃ビル。そこには公安たちが探している連続殺人事件の犯人である鬼の男が潜伏していた。白峯の読み通り、その男は現場であるバー『ドミニク』のマスターであった。男は肥大化した上半身のせいでビリビリに破れた白いシャツとパツパツになりながらもギリギリ下半身が収まっているスラックスを着用しており、全身に付着した汚れからは数日間まともに身体を拭ってさえいないことがわかる。

 浅い呼吸を繰り返す男の脳内では楽しかった日々がメリーゴーランドのようにグルグルと回想されていた。

 男にとって、自らの城であったバーはこの世の楽園に等しかった。


 男が生まれたのは昭和四十四年、西暦に直すと一九六九年の夏のことである。東北の寒村に住む老夫婦が遅くに授かった子供だと酷くもてはやされた男は保育園にも預けられず、村の大人たちによって蝶よ花よと育てられた。

 甘やかされて育った男の環境が一変したのは生まれ落ちて十年後であった。ある日、男が家から一時間ほどの距離にある小学校で授業を受けている最中、十数人しかいない教室に校長が飛び込んできた。その日は朝から猛烈に雨が降っており、男がのんきに家に帰る際にずぶぬれになるだろうなと考えていたときのことであった。青ざめた顔の校長が言うには、祥倫地区、男の家がある場所が堤防の決壊で水に沈み、土砂崩れで救助にも行けないというのだ。

 校長の発言を聞いた男は制止する教師たちを振り切って、大雨の中を傘もささずに走り出す。薄暗い通学路をメロスのように駆け巡った男が自己最速ともいえる帰宅速度を発揮し、三十分ほどで実家が展望が望める高台にたどり着いた男が見たものは濁流にのまれて見るも無残な姿になった家々が並ぶ地獄絵図であった。土地の性質柄、平屋ばかりの地区だった男の生まれ故郷はそのほとんどが水没し、ところどころにテレビ用のアンテナと屋根の頂点が見えるだけだった。誰がどう見ようとも、この状況下で生きているものはいないと、確信が持てるほどの絶望的状況であった。

 男は一瞬にして全てを失った。深い深い絶望が襲った。そして、その胸の中には暗い炎が宿る。男は知らなかったが男の母は鬼とまぐわった家系であり、男の身体には悪鬼の血が流れていた。その血が、全てを失った強烈なストレスを受けた男の身体に変化を与えた。身体がひ弱な子供の肉体から成人顔負けの体格へと急成長し、色白だった体色は深い緑色へと変色した。

 不幸なのは男だけではなかった。心配した彼を追いかけてきた担任教師が、男を、鬼という名の怪物を見つけてしまったのである。変生してしまったばかりの鬼に理性を保つことは難しかった。加えて、彼はまだ子供だったのである。結果、一つの死体が増えてしまった。

 男に流れる鬼の血の名は『鬼童丸』。平安の頃、源頼光を狙い、牛の皮をかぶり奇襲をかけて返り討ちにあった鬼である。故に男は無意識のうちに、殺してしまった担任の皮をならってもいない術で綺麗に剥ぎ取り皮をかぶった。そして、フラフラと自身の意識のないままに生まれた愛する故郷を離れたのであった。


 男が意識を取り戻したとき、そこは温かいベッドの上であった。


「目が覚めたかい?」


 ベッドの横に座っていた初老の男性が男に柔らかな笑みを向けた。状況のわからない男は混乱したままに男性へ訊いた。


「ここは?」

「俺の家だよ。うちの店が入ってるビルの前で君が倒れてたからさ、とりあえずうちに運んだんだ」


 男性は底なしの善人であった。見ず知らずの男を介抱するなど危険極まりないが、そんなことを勘定には加えずに男が立ち上がれるまで世話を続けた。そして、男が回復したとき、男性は男にある話を持ち掛けた。自分の店を手伝ってくれ、遠回しに行くところがないならばここにいていいと告げたのである。男はその優しさに感謝した。

 そこからは男が失ってしまった幸せを再び手に入れたような生活であった。男性の生業であるバーでの仕事を手伝い、常連との会話を楽しみ、家に帰れば大好きになった義父とも言える男性との生活が待っていた。故郷を亡くした傷はジワジワと埋まっていくのを男は感じていた。

 男性が病に倒れ、男は生業を受け継いだ。男性が居なくなっても耐えられるほど、男の心は強くなっていた。バー『ドミニク』は男性が以前、アメリカを旅していたときに助けられた男の名前を貰った店である。いつか、男性から受け継いだ店ではなく自分の店を構えたらドミニクの名前を自分を助けてくれた男性のファーストネームに変えようと思っていた。そんなある日のことである。店に、ムンムンと気に入らない臭いを漂わせた女が営業時間前にやってきた。

 男の運命はそこでまたしても変わった。


 カランカランとバーの入口ドアに備え付けてあるベルが鳴った。

「すみません、まだ開店前で――」

「あら、本当に鬼畜生が働いてるわ」


 男は背筋が凍る感覚を得た。誰も知らない、自分だけの秘密。それが初めて会う厚化粧の女に一瞬にして見抜かれたのだから当然だ。そのような状況下で男は極めて冷静に女へと返答した。


「なにをおっしゃっているか理解しかねます」

「あら、理解しなくていいのよ……罫滅けいめつ


 女が不意を撃ち、ヒールを投げつけてなにかを唱えた。その言葉と共にヒールがカパリと折れて、長方形の札が飛び出した。そして、札は男の左腕を深く切り裂いた。

 切り裂かれた腕からは皮を超え、地肌である緑色の皮膚が現れた。女はそれを見て、深く耳まで届きそうな笑みを浮かべる。


「大当たり。これでアタシも一流退魔師の仲間入り――」


 女の言葉はそこまでだった。マスターは憤怒の感情に身を任せ、肥大化した両の腕で大切にしていたかつての担任皮を自ら破り、女の下半身と上半身を握りこんで無理矢理ねじり切った。

 女は死んだ。身体が二つになったのだから当たり前のことである。そして、それは同時に男がバーを続けられなくなったことを意味した。どう考えても繕えない、自らちぎり捨てた担任の皮が周囲に散乱しているのだから、これもまた当然のことであった。

 しかし、男は諦めなかった。自然に押しつぶされた故郷は諦めざるを得なかった。だが今回は違う。また新たな皮を得て、新天地でやり直せる。そのためには『ドミニク』を深く知っている常連を殺し、ドミニクの存在をなかったことにしなければならない。義父代わりの男性の味を覚えている人間を消さなければならないと短絡的に考えたのだ。

 男は冷静ではなかった。酒の味の違いなど、よほどの人間でなければ理解しえない。そのことに思い至ったのは、既にモヒートと呼んでいた男を手にかけた後だった。しかし、男はもう後には戻れない。臭い臭い生き胆を食らい、鬼としての力を維持して、そのまま次々と手を汚し続けて五日目。男はついに常連である『金魚割り』と対峙したのである。



 結果として、男は再び鬼へとならざるを得なかったのだ。自身の居場所であるバーを続けるために。そして、鬼である自分の存在理由を守るために。


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