第2話 策略の芽生え

 寺の朝は未だ静寂に包まれていた。

 宗則はその静けさが好きであった。ひんやりとした空気、鳥のさえずり、朝霧が果てなく広がる光景。

 すべてが新しい一日に向けて彼を迎えていた。


 白雲斎はこの朝も宗則に経典の整理を命じた。分厚い仏教経典の中に、見慣れない装飾が施された巻物が一つあった。


「今日の経典はこれだ。じっくりと読み解いてみるがよい。」


 宗則はその巻物を手に取り、書院の隅で静かに読んでいた。

 その内容は難解であったが、宗則は不思議と苦には感じなかった。


 曇天の午後、白雲斎が来客に応対する合間に宗則は一人、書院の整理をしていた。

 その時、ふと目に留まったのがあの固く閉ざされた棚であった。


 普段は閉ざされているはずの棚が、僅かに開いていたのだ。

 好奇心に駆られ、宗則は戸をそっと開けてみた。そこには、「孫子」「六韜」などと書かれた古びた巻物が並んでいた。


 その中に、特に目を引く一本の巻物があった。巻物はとても古びていて、文字はぼやけて読むことができなかったが、表紙には一対の烏が描かれていた。


「これは…」


 宗則の心は踊った。

 その烏の絵は奇妙であり、謎めいた魅力があった。

 彼の目は無意識にその巻物に引き寄せられたが、さらに手を伸ばす前に背後から声が響いた。


「興味を持つか。」


 白雲斎の声であった。

 宗則は驚いて振り返ると、白雲斎が静かに見つめていた。

 その目には、宗則の将来に対する期待と確信が宿っていた。


「心が乱れると、知恵は鈍るものだ。」


 白雲斎は巻物の位置を整えると、棚の扉を閉めた。


 翌日から、白雲斎は宗則に「孫子」「六韜」などを読み込むことを命じた。

 宗則は夜遅くまでろうそくの光で字を書く練習や読書に没頭した。

 白雲斎は、彼の学びのスピードに驚かされることがたびたびあった。


 幾晩も、背中のあざを指でなぞりながら眠りについていた宗則は、その度に奇妙な夢を見た。

 夢の中では、自分が大いなる戦の指導者となり、知略を駆使して戦場を制圧している姿が浮かび上がった。


 ある晩、夢の中で巨大な烏が宗則の前に現れた。その黒い翼が広がると、あたり一面が闇に包まれた。


「宗則…」


 その声は低く響き渡り、鳥が言葉を発するとは思えないほど威厳のある声だった。


 宗則は驚きつつも、烏の眼差しが背中のあざに何かを示していることに気付いた。

 その瞬間、背中のあざが熱を帯びるのを感じ、奇妙な感覚に襲われた。


「お前の背中に刻まれたあざには特別な意味がある。そのあざが、お前の知恵と導きの力を引き出すのだ。」


 烏の言葉が心に響き渡り、宗則はその特別な使命を理解し始めた。

 烏が去ると夢の中で見た闇も消え去り、宗則は冷たい汗を流しながら目を覚ました。


 目覚めた宗則は、あざに込められた意味を深く心に刻み、自分の将来への確信と決意を抱いた。


 やがて数週間が経過し、宗則は白雲斎の指導のもと、「孫子」「六韜」を驚異的な速度で理解し、吸収した。

 それは背中のあざと彼の特別な能力が影響していたのだ。


 ある日、白雲斎が宗則に新たな課題を与えた。


「宗則、この村の井戸水を巡って問題が起きている。どう解決するか考えよ。」


 突然の難題に宗則は困惑したが、すぐに思案し始めた。まずは村の様子を観察することにした。


 村を歩き始めると、焼けつくような太陽の光が彼の肌を刺した。

 耳を澄ますと、わずかに怒号と悲鳴が響いてくる。

 村の中心にある井戸の周りには、男たちが腕を組み、口論を繰り広げていた。

 井戸水を巡る血眼の争いが繰り広げられているのが見て取れた。


 近づくと、村人たちの対立がより鮮明に浮かび上がる。

 長い行列の中には、暑さと渇きから苛立ちを募らせている者も少なくなかった。

 争いを仕掛けたのは、以前から対立していた二つの一家だった。


「これは俺たちの順番だ、後ろに回れ!」


と叫ぶ太った男、その顔には怒りの色が濃く滲んでいた。


「順番って言ったって、長い間お前たちばかりが先なんじゃないか!」


と痩せた若者が食い下がりながら、手に持ったバケツを地面に叩きつける。

 太った男は吉兵衛、痩せた若者は作兵衛であった。吉兵衛は豪快な性格で声が大きく、作兵衛は真面目で下積みの生活を送っている。


 宗則はそれらの様子を静かに観察し、争いの本質を見極めようと努めた。

 彼は冷静にその状況を分析し、解決策を思案した。


 井戸の前には何人かの村人が輪を作って集まっていたが、争いの中心には吉兵衛と作兵衛がいた。


「吉兵衛さん、いつも大きな桶を持ってきて、自分たちばかり水を取っていくのは不公平だ。」


と作兵衛は訴えかけた。


「貧乏人の言い訳など聞く耳持たぬ! 自分の家の井戸を掘るなりなんなりしろ!」


と吉兵衛が返す。


 宗則はその光景を見つめながら心の中で考えた。この争いの本質は、単に水の分配にあるのではなく、社会的な不平等と権力の問題に起因している。

 だが、どのようにして村人たちに公平なルールを受け入れさせるかが課題だった。


 そして、考え抜いた末、宗則は村の長老を訪ねることに決めた。

 長老の住む家は、村の入口近くに立つ一軒家だった。木造の古びた家だが、立派な門がその威厳を保っている。


 長老の家に入ると、草木の香りが漂ってきた。

 敷かれた畳は年月を感じさせるものの、整然と並べられた書物が長老の知識と威厳を象徴していた。長老が静かに彼を迎えた。


「今日はどのような用件で訪ねてきたのかね?」


と長老は問いかけながら座布団に座った。


 宗則は深く息を吸い込み、丁寧に語り始めた。


「長老様、このままでは井戸問題が村全体の争いに発展してしまいます。しかし、少し工夫すれば皆が納得できる方法があります。」


 宗則は慎重に言葉を選びながら提案を説明した。


 解決策はシンプルながら効果的であった。井戸の利用を公平にするために、次のようなルールを提案したのだ。


一つ、各家庭が日ごとに順番を決め、井戸水を引く時間を割り当てること。


二つ、大きな樽や桶を持ち込むことを禁止し、一人当たりの水の使用量を制限すること。


三つ、井戸の管理責任を共有とするため、定期的に村全体で清掃を行うこと。


 宗則はこれらのルールを長老が自らの意見として村人たちに伝えるよう仕向けた。


 長老はその提案の意義を理解し、村人たちに語りかける決意をした。


 その日の夕方、長老は村の中央にある広場に立ち、村人たちに語り掛けた。


「皆の者、この方法に従うならば、井戸水を公平に使えることになり、争いもなくなる。皆が協力し、井戸を大切に管理することが必要である。」


 長老の言葉に、村人たちは戸惑っていたが、次第に納得し、険しい顔つきから和らいだ表情に変わった。


 争いは沈静化され、井戸の管理も円滑に進むようになった。


 その日の夜、白雲斎は宗則に対して頷いた。


「よくやった。お前は戦略の基礎を理解している。戦場での戦略と日常の問題解決が同じ原理に基づいていることを学んだな。」


 初めて自分の知略が役立ったことに満足した宗則は、さらに知識の探求に励むことを誓った。


 夜空を見上げながら、宗則は背中に刻まれた鳥のあざを指でなぞった。

 そのあざが、やがて彼の運命にどう関わるのかまだ誰も知らないが、少年の心には新たな希望が芽生えていた。


(続く)

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