第1話 閉ざされた書棚

 寺の朝は早い。

 鐘の音が響き渡ると、兄弟たちはそれぞれの役割を果たすべく動き出す。

 義隆は畑で鍬を振るい、頼明は竹籠を編む道具を手に取る。その中で、宗則は書院にて白雲斎の手伝いをしていた。


「今日の経典はこれだ。よく読んでおくのだぞ」


 白雲斎が手渡したのは、分厚い仏教経典だった。

 その内容は難解で、宗則は何度も読み返す必要があったが、不思議と苦にはならなかった。文字を覚える速さは兄たちにも評判で、白雲斎も心の中で密かに驚嘆していた。


 ある日のことだった。白雲斎が来客に応対している間、宗則は書院の整理を命じられた。

 整然と並んだ書物の中で、ふと目に留まったのは、普段は固く閉ざされた棚だった。


「普段、鍵がかかっている棚が…」


棚の扉が僅かに開いていたのだ。

 中を覗くと、そこには見慣れない古びた巻物が並んでいた。

 巻物の表面には、見慣れない筆跡で「孫子」「六韜」といった文字が書かれていた。


 宗則の心は躍った。経典ではない、戦の書物——

 それは彼の心の奥底で湧き上がる未知への渇望を刺激した。しかし、手を伸ばすその瞬間、白雲斎の声が響いた。


「その棚には触れるな」


 宗則は慌てて振り向き、白雲斎の厳しい目に射すくめられた。


「なぜこれほどの書物が…?」


 疑問が湧くも、白雲斎はそれに答えなかった。ただ、


「まだその時ではない」


とだけ言い残し、棚に再び鍵をかけた。


 宗則は、鍵がかかる音がまるで自分の可能性に蓋をするように感じられた。

 だが、彼の中に芽生えた探究心は、その扉が閉ざされるほどに強くなっていった。


 その夜、宗則は畑に立つ義隆を見つけた。

 月明かりの下で、義隆は汗を拭いながら微笑んだ。


「疲れたか? 宗則」


「いや…兄貴こそ、もう休めばいいのに」


 義隆は優しい目で弟を見つめた。

 父の代わりとして、幼い宗則を守り育ててきた彼の胸には、弟たちへの深い愛情があった。


 一方、頼明は黙々と竹籠を編みながら、時折宗則に目をやった。


「お前は、俺たちより先に立つべき人間だ」


 頼明の言葉に宗則は驚いた。頼明はそう多くを語らないが、その一言には確かな信念が込められていた。


 その夜、宗則はまた夢を見た。

 夢の中で、自分の背中から翼が生え、闇夜の空を翔けている。どこか懐かしく、けれども恐ろしい感覚——

 それは現実でも胸に残る奇妙な感覚を呼び起こした。


「あの書物には、何かあるのかもしれない」


 心の中で囁く声があった。その声に従うように、宗則は次の日、白雲斎に問いを投げかけた。


「どうして、あの書物を隠すんですか?」


 白雲斎は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに静かな口調で答えた。


「宗則、お前はまだ若い。あの書物を知れば、お前の道が定まるだろう。だが、それは善か悪か、まだわからぬのだ」


 その言葉の意味を測りかねた宗則だったが、胸に新たな決意が芽生え始めた。

 それは、単に知識を得たいというものではない。自分の存在の意味を見つけたいという強い想いだった。


 白雲斎は夜空を見上げながら呟いた。


「戦乱の世に現れる、ただ一筋の風。それがお前かもしれぬな…」


 宗則の背中に刻まれた鳥のあざ、そして閉ざされた書棚の鍵——それらが彼の運命にどう絡むのかは、まだ誰も知らない。


(続く)

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