洛陽の華、戦塵に舞う~陰陽師、乱世を導く~
エピファネス
第0話 無才と言われた三男
天文二十一年(1552年)、尾張の国。
戦乱の世は未だ終わりを知らず、人々は日々の暮らしの中でその余波に翻弄されていた。
日が沈みかけた薄闇の中、一人の少年が山間の道を駆けていた。
名を宗則と言う。没落した武士の家に生まれ、今は寺で暮らしている。
彼の身体には、首から背中にかけて鳥の羽ばたきを思わせる不思議なあざが浮かんでいた。
幼い頃は薄かったそれが、年を重ねるにつれ鮮明になり、それに伴い心の奥底に奇妙な感覚が広がり始めていた。
「また、変な夢を見た…」
宗則は額の汗を拭いながら呟いた。
夢の中ではいつも自分の背中から翼が生え、遥か彼方の空を翔けている。
だがその夢が何を意味するのか、少年の知る由もなかった。
宗則は八歳以上年の離れた二人の兄と共に育った。長兄義隆は力自慢で純朴な性格だが、幼少時から弟たちを守る責任感が強かった。
彼は宗則が生まれた日、父が戦場に出陣するのを見送った記憶を今も鮮明に覚えている。
その日、父の無言の表情が、義隆に全てを託していることを物語っていた。
「お前は強く生きろ」
そう言いながら、父亡き後の幼い弟を背負い、山中を彷徨った日のことを思い出す。
一方、次兄頼明は手先が器用で、草鞋を編んだり、猟で獲物を得たりして生計を立てていた。
口数が少ない彼はいつも冷静に物事を見極めており、宗則の将来について密かに希望を抱いていた。
「お前がいつか、何かを成し遂げるのを見たい」それが彼の本音だったが、その言葉を口にすることはなかった。
彼ら兄弟が暮らす寺の住職白雲斎は、かつて宗則の父と親交があった人物だった。
父の死後、行き場を失った兄弟を引き取り、面倒を見てくれたのだ。
寺には仏教の経典のほかにも、通常の寺にはない珍しい書物が数多く置かれていた。その中には、戦の記録や兵法書といった類のものもあった。
ある日、宗則はその書物棚の前で足を止めた。
「これ…戦のことが書かれているのか?」
棚に並ぶ兵法書の背表紙に指を滑らせたが、手を伸ばすことはしなかった。
自分には触れる資格がないように思えたからだ。しかし、それらが不思議と心を引きつけるのを感じ、後にそのことが頭から離れなくなる。
寺の生活は決して楽ではなかったが、義隆が畑仕事に精を出し、頼明が編み物や猟で収入を得ていたため、最低限の暮らしは成り立っていた。
宗則も掃除や薪割りを手伝いながら、空いた時間に白雲斎から文字を学んでいた。
「お前は覚えが早いな」
白雲斎は、宗則が経典をすらすらと読む姿に目を細めていた。だが、その奥には何か思惑があるようにも見える。
「坊主の学問だけでは満足できまいな」
白雲斎のその一言は、宗則の胸に小さな火を灯した。
だがその意味を深く問うこともできず、宗則はその日も黙々と経典を読むだけだった。
夜になると宗則は、決まって背中のあざを指でなぞった。何か得体の知れないものが自分の中に宿っているような気がしてならなかった。
「俺は、何者なんだろう…」
兄たちと自分の姿や性格が似ていないことを、宗則は密かに気にしていた。
父母がいない今、それを確かめる術もない。孤独が胸に忍び寄るたび、夢の中で翼を広げる感覚が一層鮮明になる。
そんな夜を繰り返す中、宗則はふと、寺にある書物のことを思い出した。
「読んでみたい…あれを知れば、何か変わるのかもしれない」
少年の胸に芽生えた小さな決意が、やがて彼の運命を大きく動かすことになる。
夜空を見上げる宗則の表情は不安と決意が入り混じっていた。その時、白雲斎が書院から出てきて呟いた。
「風が変わり始めている…お前はその風に乗れるか、それとも呑まれるかだな」
この一言が、宗則の背中を押すような風となった。
続く
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