第2話 血沼れギツネ
家に帰ると、時刻は午後2時を回っていた。
こんな夜中だ、流石に妻も寝入っているだろうなと思い、大きな肩掛け鞄をソファに放り投げる。
少しばかり溜息を吐いてから、なるべく音を立てない様に2階へと上がった時だった。
階段付近の妻の部屋から、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
盗み聞きはいけないと思いながらも、扉越しに耳を澄ます。
「もしもし。ラウン?…あぁ。あの人はまだ返っていないわ」
『先週言ってた旅行なんだけどさ、どうにかチケット取れたんだ』
男のその返しに、女性は歓喜の声を上げた。
「じゃあ。来週は二人で旅行に行けるの?」
『勿論。妻の方は何とかするよ』
その男の声を聞かずとも、妻と相手がどういう関係なのかは理解出来た。
あまりのショックに、膝から崩れ落ちる。
その直後、扉が大きく開いた。
「ナブィン?遅かったわね。おかえ」
「どういう関係なんだ、俺の弟と」
妻の声を遮って言うと、妻は口を引き結んだ。
そんな妻の肩を、僕は強く掴む。
そんな僕達の背後には、吹き抜けの床があった。
「分からないの?貴方はいつも仕事に呆けて、私を抱こうともしないのよ!?昔も今も、何処か一線を引いているのを分かっているのよ」
『抱く』その言葉に一瞬戸惑ったが、その目は真っ直ぐと妻を見ている。
「君を傷付けたくなくて」
「別にそれでも構わないわ。貴方が歩み寄ってくれないよりはマシ」
「そ、そんなつもりではなくて」
そう言って思わず、妻を強く押してしまった。
直後、あっという間に妻は落ちていった。
ショックで動けなかった、頭は真っ白になって追いつかない。
「警察…消防者」
端末のキーボードを押そうとして、一瞬だけ妻の姿が目に入った。
真っ白な大理石と同じ様に白くなった肌に、美しい顔はパックリと割れている。
その周りには、真っ赤な血溜まりが出来ていた。
吐きそうになり、思わず携帯を落としてしまった。
画面は大きくひび割れ、電源が中々入らない。
一体誰を頼ればいい?
警察を呼んだ所で、真っ先に疑われるのは間違いない。
妻が不倫していた事に怒れ狂い、突き飛ばして殺した。
絶対に弁解出来やしないっ!
追い込まれた脳を必死に回していた時だった。
僕の記憶の中で、例の紙切れが通り過ぎていく。
「そうか…」
タイミング良く、端末が奇跡的に起動した。
目を大きくさせてから、震える手でキーボードを打ち、電話を掛ける。
二回程のコールの後に、通話が繋がった。
『はい』
男の低い声が、僕の耳に飛び込んできた。
「頼む助けてくれ。妻が落ちて死んでるんだっ!で…でも。わざと突き飛ばした訳じゃ」
『ナブィン。殺したのか?』
声は呆れたモノでも無く、明らかに冷静そのものだった。
「頼れるのは誰もいないんだ。助けてくれ」
『分かった。直ぐに行く』
その声の直後に、電話は静かに切れた。
安心のあまり、僕は下に落ちかける。
「まっ」
慌てふためいた時に、玄関のチャイムが押された。
ギョッとして背後を振り返る。
『夜遅くにすみません。近隣の方が、此方で言い争う声が聞こえたと通報を受けました。中を見させてもらっても宜しいでしょうか?』
「ちょっと待っ」
慌てて階段を降りようとした時、同時にドアが開かれた。
「どうっ!?」
失礼しますと言い掛けた警官は、吐き気がする様な妻の死体を見た時に、顔を真っ青に染め上げた。
「貴様っ!」
「ちっ違う」
「階段を下りて、手を頭の上に置け!」
警官は銃を抜き、今にも撃ってきそうな状態だった。
慌てて下りようとしたが、僕は階段から滑り落ちる。
「2013。応」
警官が片手に無線を使おうとした時、小さな発砲音が聞こえた。
鉄の焼ける匂いが、家中に広がる。
「他に警官は居る?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、入り口には、あの病院で見た男が立っていた。
男の足元には、頭を撃ち抜かれた警察官の姿がある。
「こ…殺したのか」
「…警官は?」
冷たい灰色の目を此方に向けて、男は静かに問いた。
「居ない」
なるべく冷静を取りつこうと、そう小さく洩らす。
男はそれでも周囲を警戒しながら、ゆっくりと僕へと近付いていく。
男は目の前まで来て、目線を合わせる様にしゃがみ込む。
そしてそのまま、警官を撃ったと思われる銃を、今度は僕の足に向けた。
「待っ」
僕の制止を無視し、男は僕の右足を撃った。
その瞬間、激痛が全身に広がる。
耐えられず、視界が薄れてゆく。
男は興味が薄れた様に、僕から去っていった。
『ピンポーン』
軽快にチャイムが鳴ったのは、8月20日の朝8時。
丁度兄の3回忌が終わった翌日だった。
バタバタしていた為に、来ていた喪服は薄汚れている。
少し申し訳なさを感じてしまうが、着替えで待たせる訳にもいかない。
私は慌てて玄関へと駆け寄り、ドアをゆっくり開けた。
現れたのは、焦茶色の髪を七三分けにしてに、セントラルヘテロクロミアの瞳に、少し無精髭を生した男だった。
「マイケルさんですよね?兄から弁護士だと聞いていました」
「遅くなってすまない。お悔やみを言わせてほしい」
「すみません。遠くから」
沈む様な声で洩らしてから、私は、男に中へ入る様に促す。
男はコートの雪を軽く払ってから、室内へと足を踏み入れた。
「途中で車をぶつけられてね。後ろのヘットライトが使い物にならなくなってしまった」
「僕も当て逃げされましたよ。今日やっと修理に出せそうです」
そう言って振り返ると、183センチぐらいの窓越しに、男が外を見つめているのに気付いた。
どうやら、男と同じ大きさぐらいの様だ。
男の目の先には。車のフロントガラスが大きく割れて、前方が陥没したミニワゴンが止まっていた。
昨日から振り続けた雪の所為で、車内には雪が流れ込んでいる。
「酷いな。誰がやったんだ?」
その言葉に、僕は溜息を吐く。
「顔は見てませんけど、『オレオ車修理店』って文字が書かれてました。……修理業者が壊すなんて、酷すぎますよね」
「そう…」
男はそう返してから、僕の方を振り返った。
「お兄さんが死んだ事、誰かに何か言われた?」
「兄は会社でパワハラをしてました。勿論、プライベートでも荒れていたので、当然疑われるかと思いました。でも、そんな心配必要無かったみたいです」
そう言って項垂れると、男は小首を傾げた。
「いい奴だよ」
「はは、ありがとうございます」
そう言ってネクタイを緩め、ゆっくりとソファから立ち上がって、私はキッチンへと向かい歩き出した時に、男が靴を履く擦れる音が聞こえた。
「あの、お茶は?」
「少し用事が出来たんだ。何かあれば、お兄さんに連絡してくれ」
男がそう言ってから、1分後に扉が閉まった。
「お礼、言えなかったな…」
静まり返った部屋で、僕はそう溢した。
扉を閉めて、車内に入った直後に端末が振動する。
エンジンを駆けようとした右手を引っ込め、コートの内側にある端末を取り出した。
見知った番号に目を細め、僕は通話ボタンを押した。
「僕だ」
『どうだったか。三男坊やは』
その声に、窓ガラス越しに家を眺める。
「ビクビクしてたな。本人に自覚は無さそうだったが」
『直ぐ戻れるか』
「すまない。少し用事が出来た」
そう言ってから、俺は携帯を肩と耳で挟む。
『仕事か?』
「いや、私情だ」
そう返してから、素早く左手でエンジンを掛けると、振動で鍵が揺れる。
「問題ない。直ぐに済む」
『分かった』
男はそう返すと、通話を切った。
昨夜から降り注いでいた雪は、オレオ車修理店に着くまでには降り止んでいた。
そのお陰で、フロントガラスからは、真っ青な青空が見えていた。
外に出てみると、まだ少し凍上している。
だが。滑り止めのお陰で気に掛ける必要はなそうだと思いながら、横目で修理店の建物をチラ見する。
来るのが早かった様で、錆びたシャッターが半開きな状態で放置されていた。
念の為にエンジンを切ってから、シャッターの方へと近付き、頭を間から覗かせる。
「すみません。修理をお願いしたいんですが」
そう声を掛けると、2階に事務所とも思われる窓に明かりが付き、男性と思われる野太い声が聞こえてきた。
「こんな時間に何しに来たんだ!営業前だぞ!?こっちは気分悪いっていうのに」
大きく肉付きのいい長身の男が、唾を吐き、怒号を浴びせながら、二段飛ばして突進する勢いで来た。
「申し訳ありません。急を要するもので…」
愛想の良い笑みでそう返すと、男は舌打ちをした。
早すぎたのは此方に非があるのが確かだ。しかし、客商売でこの態度は受け入れ難いものだろう。
「取り合えず。様子を見させてくれ」
どうにか冷静を取りつこうと言った男は、半分開いたシャッターから、身体を引っ掛からせながら、車の様子を伺おうと顔を覗かせる。
アウディ Q7シルバーが、後ろが陥没したのに加えて、後ろのフロントガラスが駄目になった状態を見た途端に、男はカッと目を大きくさせて、同情する様な表情になった。
「…ぶつけられたのか」
「えぇ。どうにかなりますか?」
そう返すと、男は困惑しながらも承諾した。
「よくこれで保ったな…」
シャッターを引き上げながら、呆れた声で男はそう溢した。
「早めに直してもらえると助かります。遠出する予定があるので」
「代車を使えばいいじゃないか?」
男の言葉に、少し口角を上げる。
「これが良いんだ」
そう返すと、男は再び舌打ちをした。
そんな男と背を合わせる様に、私は元来た道へと歩き出した。
GARON 間城信 @800463
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。GARONの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます