第11話
「おしながき」を受け取ったみどりは。駿府亭の中庭を通り抜けて、葵の間の前に立つと、茶室の様な小さな一軒家の、にじり口に立ち止まる。
「あの、みどりです」
「待っていたよ、入って入って」
にじり口のふすまを開けて、中に入っていく。全面、深緑色、天鵞絨の不思議な部屋に、正座でまっている樹がいた。
傍らには、ポットと急須、そして水筒とおしながき用の、折り畳まれた和紙が置かれている。
「大丈夫だった?」
「え?」
「ほら、うちの兄貴、見た目怖いでしょ」
「いえ、仕事中におじゃましたから、ちょっとムスッとしていたけど、怖くはなかったです。それより、おばさんがグイグイなのが……ちょっと」
「うちは女の子いないからね。みどりちゃんがこれからは毎日来るって知ってからは、そりゃあもう、嬉しそうだよ。本当は、駿府亭に住んでもらいたいみたいだよ」
「あははは……」
みどりは、苦笑いをするしかなかった。
「そうだ、芋ようかん買ってこなきゃって、袋いっぱい買ってきていたなあ。みどりちゃんの大好物だから、たくさん食べてもらうんだって」
「わたし、一切れでじゅうぶんなのに……」
「ま、適当にあしらってよ。慣れるまで大変かもだけど」
「あはははははは……」
やっぱり、苦笑いしかでない。
「ところで、おしながきは何枚書けばいいの?」
「えっと、今日は、二十枚書けばいいそうです」
「了解。これが、先生が書いたお品書きだよ。お手本っていうのは、ちょっとオーバーかもだけど、これに近いレイアウトで書けばいいんじゃないかな? ごめんね、うまく説明できなくて。僕は書道さっぱりだから」
みどりは、和紙をうけとる。四つ折りにたたまれたおしながきを開くと、母の書いた書が現れた。
うっとりする様な美しい字で、料理名が書かれている。
「うちの献立は、毎日変わるんだ。兄貴のこだわりで、絶対に旬の素材しか使わない。でも、かのえ先生は喜んでいたよ。『旬のものが一番美味しい。そして、一番安い』って」
「お母さんらしいな」
みどりはちょっとうれしくなった。お母さんは、駿府亭でもきっとわたしの知っているお母さんだったんだ。遊梨ちゃんといっしょで、誰が相手でも自分を着飾らない。
樹は、手前畳の上を指した。
「無地の和紙は、ここ。大量にあるから、いくらでも失敗できるよ。じゃ、よろしくたのむね」
みどりは、習字セットを準備すると、水筒を手に取った。駿府亭の井戸水を、すずりの中に静かにそそぐと、船の形をした古代墨を剃り始めた。みどりの誕生日に、お母さんからもらった古代墨だ。
シュシュシュ。
みどりが墨をする姿を、樹がじっとみている。すごく恥ずかしかった。たまらず、樹に話しかける。
「あ、あの、ずっと見ているんですか?」
「だめ?」
「はい。ずっと見られるのは……ちょっと恥ずかしいです。」
「そっか。そうだよね。じゃ、終わったらスマホで連絡してもらえるかな? 電話かLINE、教えてもらえる?」
みどりは、迷わずLINEアドレスを交換した。電話をかけるのは緊張する。
「じゃ、終わったらメッセージ入れてよ。僕は自分の部屋で待っているから。のどがかわいたら、お茶は勝手に入れて飲んでね」
みどりがコクンとうなずくと、樹はにじり口から外に出ていった。
葵の間は急に静かになった。みどりは、呼吸を整えると、再び墨を剃り始めた。
お母さんの書に少しでも近づきたい。これは、みどりの「本当のこと」だった。
「みどりはもう、これで書く実力が充分に備わっているから」
お母さんはそう言っていたけど、お母さんとの実力差は、みどりが一番わかっていた。お母さんの書は、まるで吸い込まれる様な魅力がある。
お母さんのように字を書けたら、もっともっと書道が楽しくなる気がする。わたしの字でも、この部屋を『海』にできるような気がする。
みどりは、楽しくてしかたがなかった。だってこれからは、何を書くか迷わなくていい。毎日替わる「おしながき」を書くことができる。
墨を剃り終えると、改めて匠のくれたメモを手に取った。
鉛筆で書かれた「おしながき」は、すばやく書かれたラフな筆致だったが、決して乱暴ではない、基本を抑えられた見事な字だった。
先付
烏賊の紅葉和え
前菜
秋刀魚の霙煮、鮭胡麻塩和え
小豆萩板新丈、栗松葉
柿絹田巻き
お椀
松茸土瓶蒸し
(松茸・紅葉麩・菊花つみれ)
お造り
鮪・鰤・北寄貝 または 銀ひかり・真鯛松笠・鰹
焼物
うなぎの白焼き
揚物
海老の蓑揚げ、海鮮牛蒡揚げ
蟹爪網衣、胡麻豆腐
煮物
里芋饅頭~秋の木の子餡かけ~
お凌ぎ
いくら茶漬け または けんちんうどん
デザート
和栗のプリン
全九品を、丁寧に書き上げていく。お母さんには及ばないけど、高級料亭の「おしながき」として恥ずかしくない文字を書く。そう覚悟を決めて書き始めた。
最初の一枚は、文字を大きく書きすぎて入りきらなかった。二枚目は、小さくなりすぎた。
三枚目は、ようやくきっちり収まったけど、全然納得いかなかった。文字を写すのと、紙の中に納めるのに集中しすぎて、文字がこわばっている。そう感じた。
みどりは、大きく息を吐くと、急須を手に取った。ちょっと、お茶を飲んで気分をおちつかせよう。
茶筒を開けて、急須にお茶を煎れる。お茶の葉のいい匂いがする。みどりは、お茶を煎れるのがスキだった。乾燥したお茶の葉が、急須のなかで、お湯を吸い取ってゆっくりと茶葉が開く。なんだか縮こまった自分の体がゆっくりとほぐれていく、そんな感じがした。
急須をゆすって、静かにお茶を湯呑みに注ぐ。湯呑みを持って、息を吹きかけてゆっくりと湯呑みに口を当ててすすっていく。
「美味しい……」
茶葉? いや、水が違うのだろうか。きっと両方だろう。ゆっくりと体にしみわたる。そして、自分の唇がカサカサに乾いてしまっている事に気づいた。緊張していたのだ。
みどりは、自分の書いた書とお母さんの書を、交互に比べてみる。そして、ひとりつぶやいた。
「うん、わたしの書は、美味しそうじゃない」
お母さんが、学校で書いた時を直してくれた時の話を思い出した。
「字の形を観察するんじゃなくて。字の意味を観察するのよ。そうすれば、「鉄」の字は硬く、「水」の字はなめらかになるから。ほら、この「芋ようかん」って字は、美味しそうでしょ。みどりが、芋ようかんを食べたいと思いながら、この字を書いたからだよ。正直に、美味しそうと思いながらね」
みどりは、ぬるくなったお茶を一気に飲むと、書に向かい直した。
「美味しそうに。おいしそうに」
そう、つぶきながら、一品、一品、書いていった。出来上がった書を見る。
「まあ、悪くはないんじゃないの?」
みどりは、母親の口癖をつぶやいた。
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