第四章 甲本家の人々
第10話
二〇十九年十月二十一日
ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴る。
みどりは、一斉に騒がしくなる教室を後にした。手には一枚のプリント用紙を持っている。
今日は、少しだけ喘息の調子が良い。廊下の窓から差し込む西日は、毎日、規則正しく、傾いていく時間を早めている。
みどりは、階段を降りると、右手にある職員室のドアを開けた。
「失礼します。柳先生はいらっしゃいますか?」
「あ、葵さん、待ってたわよ。」
机越しに、柳先生の声がする。
みどりは、柳先生の席まで行くと、手に持ったプリント用紙を差し出した。
用紙には「退部届」と書かれてあった。
「そっか……とうとう居なくなっちゃったね。書道部員」
柳先生は、残念そうにつぶやいた。 みどりはぺこりとお辞儀をして、
「失礼します」
と、職員室を出ていった。
学校は嫌いではない。どちらかといえば、好きな方だと思う。でも、大好きかと言われれば、首をかしげたくなる。クラスメイト達との話題が、ほんの少しずつずれていくのを感じていたからだ。
ファッションやメイクに夢中になる友達、聞いたこともない、マイナーな動画配信や、アニメについて熱く語る友達。中学受験にやっきになる友達。教室で語られる話題の種類は、学年が上がるほど増えていった。
みどりだけではない、クラスのみんな全員が、少しずつ他の人と「ずれていく」。そのジレンマに、みんな、折り合いをつけているように感じていた。
教室に戻ると、すぐに下校の準備をした。突然、ぽんぽんと頭をたたかれる。振り返ると、クラスメイトの遊梨が声をかけてきた。
「みどりちゃん、一緒にゴキタクする?」
「ごめん。しばらく一緒に帰れそうにないや。ごめんね。」
「ふーん、そっか。ざんねん。じゃ、明日ねー。」
遊梨は、特に気にする感じもなく、他の子に声をかけた。
みどりは、遊梨のあれこれプライベートを探ってこない、さっぱりとした性格が好きだった。好きなことは好き、嫌いなことは嫌い。人に左右されない、自分を持っているところが好きだった。
嫌な事からは、無言でそっと距離をとる自分とは違い、遊梨はっきり口を出して表現して、周囲と衝突するタイプだったけど。
でも、そんな遊梨とも、これからは少しずつ「ずれていく」のかもしれない。
みどりは、教室をでると、そのまままっすぐ学校をでて、茗荷谷の駅に向かった。乗り慣れた丸の内線に乗って、電車にゆられる。そして銀座駅浅草線に乗り換える。あとはもう、たった一駅で日本橋だ。
丸の内と浅草線は、乗り換えがスムーズではない。多分、道に詳しければ、東京駅から歩いた方が早いと思う。
でも、浅草線の人形町駅からは、駿府亭は目と鼻の先だ。
「あらー、みどりちゃん!」
駿府亭の門の前に、樹の母親、春美が立っていた。
着物姿がカッコいい。やっぱりこっちの方が、ピンクのフリフリレースよりも似合っている。
「やーん。嬉しい! これからは、毎日来てくれるのよね。ね!」
「はい。私が『蒼流・四柱推命』の二十三代目ですから」
「んもう、そんな堅いこと言わないで! おしながきなんて、あんなもの印刷だっていいんだから! 今時、筆で書き下ろすなんて、ここの店くらいよ」
みどりの母、葵かのえが行う仕事は、二種類あった。ひとつが葵の間での占い。もうひとつが駿府亭のおしながきの作成だ。
葵の間の占いは、毎日あるわけではない。多くても週に一、二回程度だったらしい。なので、実際のところ、母の仕事の半分以上は、駿府亭の「おしながき」の作成だった。
「献立なんて、書いてないで、おばさんとお話ししましょ。ね!ね! みどりちゃんが大好きな芋ようかんだってあるんだから!」
なんでわたしが芋ようかんが好きな事を知っているんだろう。たぶん、お母さんから聞いたんだろうけど、口が硬いお母さんから聞くなんて、そうとうのやり手だ。
「おしながきを書くのは、占いの修行のためなんで……芋ようかんは、お品書きを書き終わった後に食べます」
「んもう、しょうがないわね。じゃ、今日のおしながきのメモ、渡すわね!」
そういうと、春美は、みどりを駿府亭の厨房に案内した。厨房に入るなり、大声で叫ぶ。
「たっくーん、みどりちゃんにメモ渡して‼︎」
母親にたっくんと呼ばれた、駿府亭の板長、甲本家の長男でもある匠は、無表情でみどりの前に来た。
顔は、弟の樹とどことなく似ている気がするが、がっしりとした体格から、太い腕がのぞいている。髪型は、見事な角刈りだ。
「二十で」
匠は、ぶっきらぼうにみどりに向かってメモをつきだした。
「は、はい。」
みどりがメモを受け取ると、さっさと板場にもどっていく。
「じゃ、おばさん、私、葵の間に行きますね」
「みどりちゃーん。終わったら絶対、顔を出すのよ! まかないも、おばさんと一緒にたべましょー!」
みどりは、春美の熱烈ラブコールに苦笑いで手を降って、『葵の間』に向かった。
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