第9話

「何が見える?」


 天鵞絨の海のなか、どこからか樹の声が聞こえる。


「海です。昨日と同じ海。書が、海に漂っています。書は、緑色に光っています。ものすごく強くてまぶしい、緑色」


 みどりは、海にただよう書を両手ですくい上げてみた。

 緑色の光は、さらに強く光る。そして、ゆっくりと、みどりに吸い込まれていった。

 すべての光がみどりの中に吸い込まれると、ゆっくりと目を閉じて、深く息を吐いた。そして、ゆっくり目をあけた。


 目の前に、樹の顔があった。心なしか、少し興奮して見える。みどりは、起こった出来事を素直に伝えた。


「あの、緑色の光が、わたしの中に入ってきたんですけど……」

「やっぱり! 先生は、共感覚(シナスタジア)で名式の光をみていたんだ! そして、その能力は、みどりちゃんにも受け継がれている!」

「シナ……スタジア……?」


 首をかしげるみどりに、樹は共感覚(シナスタジア)について説明した。


「つまり……お母さんは、書の中の光を見ながら、占いをしていたってことですか?」


 樹の説明を、どうにか理解したみどりが、その内容を確認する。


「そう! で、ここからが本題。みどりちゃん、僕の名式を、ここで書いてみてくれないかい? 今日、書道セットを持ってきてもらったのは、それを確かめるため」


 やたらと早口にまくしたてる樹の言葉に、少しだけ面食らいながらも、みどりはコクンとうなずいた。

 すずりを置いて、そのとなりに黒い下敷きを起き、半紙をセットしてそっと文鎮を置く。


「水はこれを使って。うちの庭でくみあげた井戸水だよ」


 みどりは、樹から水筒をうけとると、硯に注いだ。

 トクトク……硯に満たされる水が、静かにゆらいでいる。


「墨は、これを使って」


 樹が、見慣れた桐の箱を取り出した。みどりは、受け取って桐の箱をあける。ほのかな梅の匂いがする。包装紙の振香の匂い。中から船の形をした墨が現れる。


「……松煙の古代墨」

「先生は、占いで使う書をしたためる時は、これをつかっていた。必ず新品をね」


 みどりは、古代墨を桐の箱から取り出すと、使い慣れたすずりに擦り付けた。


  シュッシュッシュ。


 墨が水に溶けていくにつれて、ゆっくりと集中力が高まってくる。

 樹は、みとりの仕草を食い入る様にみている……かなり恥ずかしかった。

 十分間、しっかりと墨を水に溶かしてから、みどりは筆に墨をふくませた。


  ふうううぅ。


 口からゆっくりと息をはいて、一文字一文字、丁寧に丁寧に文字を書いていく。

「できました」


  己卯

  甲戌

  甲虎

  乙丑

   甲本 樹


 樹を表す八つの文字を、半紙の上にしたためた。


「……どう? 何かみえる?」


 みどりは、さっきと同じように、目を閉じて、ゆっくり息を吸って吐いてから、そっと目を開けて、自分の書をながめた。


「なにも、おこりません」


 みどりは、正直に語った。


「やっぱり、そうか……」


 樹は、ガッカリそうな声をだすけど、どこか落ち着いていた。予想どおり。という表情だった。

 そして、みどりもなんとなく予感していた。


「お母さんくらいの達人の書じゃないと、光らないみたいです」

「僕には、ほとんど同じにみえるけど?」


 樹が口をはさむ。その声に同情は含まれていない。本心から言っているように思えた。


「ううん、全然違う。とめ・はね・はらい、やっぱり、私は基礎が全然なっていない」


 書道をしていない人には、そう思えるのかもしれない。でも……みどりの目から観ると、お母さんとみどりの書の出来は、月とスッポンだった。

 みどりは、自分の書いた書と、お母さんが書いた書を、交互にみつめている。

 樹は、声をかけることができなかった。みどりのその真剣な瞳は、みどりの母親、かのえ先生とそっくりに思えた。


「お母さんみたいな書が書きたい」


 みどりが、独り言のようにつぶやいた。瞳はずっと額縁の中の、母の書を見つめている。


「みどりちゃん、かのえ先生の仕事をひきついでみないかい?」

「そのつもりです。だって、お母さんの遺言に、そう書いてあったから」

「そういう意味じゃなくって……」


 樹が、押し黙る。さっきまでのとおしゃべりとは、えらい違いだ。

 樹は、しばらく考えて、口を開いた。


「みどりちゃんの本心が聞きたい。『葵流・四柱推命』をやってみたいのか。みどりちゃんが嫌なら……やめてもいい、というか、辞めるべきだと思う」


 樹は、うつむいて、小刻みに震えている。自分の本心を言おう。そう思った。このひとに、本当のことを言わないのはとても失礼だ。そう思った。


「あの……樹さんには、とても失礼な事を言うかもしれないけど、正直言って、わたしは占いがあまり好きじゃないです」


 みどりは続けた。本当のことだけを言う様に、気をつけながら。


「わたしは、人に、なにかを決めてもらうのって、心が弱い人のすることだなって思うんです。だから、お母さんが占い師ってことが、今でも信じられないです。お母さんは、とても心が強い人だと思うから……でも」

(わたしは本当のことを言うって決めたんだ)


 みどりは、大きく息をすった。


  ひゅう。


 息がかすれる音がする。


「私は、占い師にはなれないと思います。だって、わたし、ウソがつけないから」


 樹が顔をあげる。充血した目が、しっかりと合った。


「でも、お母さんのような書は、書いてみたいと思います。その人の生まれた瞬間を書いたら、たった八つの文字の書が光りかがやく。その人の真実が光りかがやくその光をみて、そのことを正直に話すことなら、わたしにもできる気がします」


 みどりは、樹をまっすぐ見つめた。目にぐっと力を込めた。自分はちゃんと、本当のことを言っているのだと伝えたかったから。


「わたしの書いた書が光ったら、それを正直に話します。樹さんは、その「意味」を教えてくれませんか? 私と、葵の間に、相談に来た人たちに」

「……ありがとう」


 樹は、上を向いた。そして、みどりを見て、


「そうと決まれば、みどりちゃんには、早速修行してもらわないとね」


 精一杯カッコつけたセリフを言った。けれど、その声はしゃがれていた。


「はい。わたしはお母さんのようになりたいです。でも修行はちょっと違うかな? だって……書道ってとっても楽しいんですよ」

「じゃあ、みどりちゃんには、かのえ先生の仲居さんの仕事を継いでもらおうかな? それが多分、みどりちゃんの書道が上達する、一番の近道になると思うから」

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