第8話

 二〇十九年十月二十日  午前十時


 みどりは、京成小岩駅のホームに座っていた。

 人形橋にある、駿府亭に行くためだ。

 日曜日だけど、制服を来ていた。料亭みたいなちゃんとした所に、何を着ていっていいかわからなかったからだ。


 ただ、今日はランドセルではなく、書道道具が入ったトートバックを肩から下げていた。

 みどりは、スマホで時刻表を調べた。今日の朝から、もう、何度も調べている。


(うん、大丈夫、日本橋まで直通になってる。)


 みどりは、普段は使わない京成線に、緊張していた

 ほどなく、電車がホームに滑り込んでくる。

 みどりは電車にのりこむと、ガラガラの電車のシートに座った。通学に使っている総武線とはずいぶんと雰囲気がちがう。


「次は、押上【スカイツリー前】〜。」


 クセが強いしゃべりかたの、車内アナウンスが聞こえる。

 みどりは電車の案内板をじぃっと見た。大丈夫だ。このまま日本橋に行く。


「次は、日本橋〜」


 ここだ。みどりはアナウンスを聞くと、列車のドアの前に立った。とにかく、乗り過ごすのが怖かった。なんでも初めてのことをするのは、とにかく緊張する。


「日本橋〜日本橋〜」


 ドアが開くと、真っ先に電車から降りた。改札の場所を探す。ほどなく見つかった改札の先には、見知った顔が手を降っていた。

 みどりは、足早に改札をぬけて、


「こんにちは、樹さん」


 と、ペコリと頭を下げた。


「こんにちは、みどりちゃん」


 樹は、グレーのカーディガンを羽織っていたが、それ以外は、昨日と全く同じ服装だった。


「慣れない路線で、大変だったでしょう? タクシーを使えばよかったのに」

「そんな、お金がもったいないです……」

「……」


 会話が続かない。無言で地下道ので口に向かって歩いていく樹の後をついていく。A—4と書かれた出口の階段を昇る。地上に出てから、角を曲がると、駿府亭の門が見えてきた。


「みどりちゃーん。こっちこっち!」


 樹の母、春美が手をふっている。お母さんの葬式の時、着物を来ていた時とは随分イメージが違う。全身ピンクでふわふわレースの服を来た春美は、とても老舗料亭のおかみには見えなかった。


「あらー、制服なの? おばさんガッカリ」


 春美はみどりのセーラー服を見ながら、ため息をついた。


「でも、そのワンちゃんのトートバック可愛いわね〜。パグでしょ、それ。」

「……フレブルです。フレンチブルドッグ」


 みどりは、愛想笑いをするしかなかった。


「あらーそうなの? でもカワイイ。ハナペチャワンちゃん♬ いっくんもそう思うでしょ?」

「……じゃ、みどりちゃんを、葵の間に案内するから」


 いっくんと呼ばれた樹は、春美の言葉を完全に無視して、スタスタと葵の間に向かっていく。

 みどりは、慌てて樹を追いかけた。気のせいか、ちょっと早足な気がする。

 葵の間のにじり口のふすまの引き戸を開けて、樹がしゃがんで入っていく。みどりもつづいた。 


 葵の間の中央に、ポットと急須、それと湯呑みとお菓子が置いてある。そして奥は、絵をいれる額縁だろうか……なぜか裏側にしてたてかけてある。

 みどりは、茶室とそっくりの葵の間に、ポットが置かれている風景を、ちょっとオモシロク感じた。 

 樹は、急須にお茶を注いでから、みどりに話しかけた。


「変わっているよね、ほとんど茶室なんだからさ、炉と茶釜も置いてもいいのに。まあ、僕は茶道わかんないから、あってもお茶をふるまうことできないけど」

「わたしは、授業で習ったから、一応、わかります」

「そっか……」

「………………」


 会話が続かない。お茶の葉がほどよく開くまでの、ほんの数十秒程度の時間をつぶすことができない。 


 沈黙に耐え兼ねた樹は、ちょっと早めに急須をゆらして、静かにお茶を入れた。 

 みどりは、ちょっと薄いお茶をすすりながら、樹が口を開くのを待っていた。


「……今日、君を読んだのは、ひとつ、確かめたいことがあるからなんだ」

「なんでしょう?」


 なんとなく、何を聞かれるかはわかっていた。だけど、みどりは、あえて、なんのことだか、わからない。といった口調で答えた。正確には正しく説明できるか、信じてもらえるかが、自信がなかったからだ。


「ちょっと変なことを聞くけど……昨日、総理を占っている時、どんな感じだった? ひょっとして、何か見えていた?」

「見えていたというか、周りが海になっていました。この部屋が、海に変わったんです。それから、お母さんの書が光って……」

「なるほど」


 樹はゆっくりうなずいた。


「じゃあ、この書を見てもらえる?」


 樹は、脇に、裏側に立てかけられていた額縁を手に取った。額縁の中には、筆でしたためられた書が飾られている。年季が入っているのか少しだけ紙が黄ばんでいる。


  己卯

  甲戌

  甲寅

  乙丑

   甲本 樹


「これ……」

「僕の生まれた生年月日、そして時刻を記した命式、八つの文字だよ。この書でも、まわりが海に見えるかい?」

「……特に・……なにも」

「あのとき、総理の占いをしていた時と、同じようにやってみてもらえるかい? たしか、目を閉じて、深呼吸をしていたみたいだけど」


 樹が、ちょっとだけ語気を強めたように感じた。にわかに緊張する。


「え? は、はい。」


 みどりは、目を閉じて・・・呼吸を整えると、大きく息を吸った。


  ひゅ。


 ちょっとだけ、喘息で息がかすれる音がする。


  ふぅううう。


 息を吐いて、ゆっくりと目を開けた。


 あたりは、海になっていた。 日の出前の海が、天鵞絨に輝いている。そして、海の上に、一枚の書が波に揺れていた。

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