第12話

  みどりは、ようやく、二十枚の「おしながき」を書き上げた。みどりは、つくづく思った。これは、大変な仕事だ。

 駿府亭の仲居さんだと思っていたお母さんが、実はおしながきしか書いていないと知ったとき、正直言ってズルイと思った。そんな楽しい仕事が、この世の中にあるのかと。


 でも実際のところ、このおしながきを読んで「美味しそう」とおもってもらうのは、至難の技だと思った。しかも、これをほぼ毎日。

 みどりは、大きく息をついた。そして、ようやく終わったら樹に連絡する事を思い出した。慌ててスカートからスマホを取り出した、待ち受け画面の時刻は、すでに二時間が経過している。


 みどりは、慌てて樹にLINEを送ると、即座にスタンプが返ってきた。フレンチブルドック が、仰向けになって転がっている絵だった。吹き出しには「急ぐぜ!」と書いている。

 みどりは、自然とくちもとが緩んでしまった。ほどなく、にじり口の前から声が聞こえた。


「みどりちゃん開けていい?」


 走ってきたのだろうか。どことなく、声が弾んでいる。


「あ、今、開けますね。」


 みどりは、書き上げたおしながきをもってにじり口のふすまを開けると、樹に「おしながき」を手渡した。


「すみません。時間がかかっちゃって……」

「大丈夫、大丈夫。お疲れ様。じゃ、これ、兄貴に持っていくから。ちょっと休憩しよう。芋ようかん、持ってくる」


 そういうと、すぐに、にじり口から出て行った。走って厨房に向かっている。やっぱり、時間がかかりすぎたのだろう。みどりは、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。とはいえ、質の悪い「おしながき」は、絶対に書きたくなかった。お母さんの仕事を、いい加減に引継ぎたくなかった。

 そうだ。お茶を煎れて待っていよう。みどりは、新しい茶葉を、急須にいれた。


 ふたつの湯呑みに、お茶を煎れ終えた時、外が騒がしくなった。


「なんでー。わたしもみどりちゃんが芋ようかん食べるとこみたい〜!」

「母さんは、来なくていいって!」


 みどりが、葵の間のにじり口のふすまをあけると、ふすまを開けようとする春美を、必死で止めている樹と目が合った。


「これから、みどりちゃんは、大事な練習があるんだから! いいから、帰れって!」

「みどりちゃ〜ん。いっくんったらヒドイのよ。おばさんを、ノケモノにするの! おばさんも、みどりちゃんと芋ようかん食べたい〜!」

「あの・・・ちょっと待ってもらえます? お茶、もう一杯いれるんで」


 みどりは、苦笑いで答えるしかなかった。


「やーん、芋ようかん食べるみどりちゃん可愛いわぁ。やっぱり、おばさんも女の子欲しかったなー」


 春美は、苦笑いをしながら芋ようかんを食べるみどりを、ニコニコしなら見ている。


「おばさんの、芋ようかん、食べる?」

「いえ、ひとつで……充分です。」

「育ち盛りなのに、遠慮しちゃダメよ! ほらほら〜♬」

「大丈夫です。ほんと……」

「いい加減にしなよ、母さん。みどりちゃん、困っているよ?」


 樹が、春美をたしなめる。


「そお? じゃ、おばさん食べちゃおう! うわ! 何? この芋ようかん美味しい! 今度から、お客様のお茶請けはこれにしちゃおう!」


 どこまでもマイペースは春美に、樹はため息をつく。みどりは、もう十分近く苦笑いを続けている。


「あ、そうそう、みどりちゃんのおしながき評判よかったわよ〜。たっくんなんて『……ほう』なんて言っていたわよ」

「……そんな……わたし、すごく時間がかかったから。すみません」


 春美の言葉に、みどりはペコリと頭を下げた。


「いや、本当によかったんじゃないかな。兄さんが人を褒めることなんて滅多にないから」


 はたして『・・・ほう。』は、褒め言葉なのだろうか。よくわからないが、悪い気はしなかった。少しは駿府亭の役に立てるかもしれない。そう、思った。


「さてと・・・ここからが本番だ」


 樹は、芋ようかんの最後の一切れを食べると、ノートパソコンを開いた。


「これを書いてもらえないかな?」


 パソコンには、だれかの命式「八つの文字」が書かれている。


 癸卯

 丙辰

 乙酉

 己卯


「だれの八つの文字ですか?」

「それは……秘密にしとこうかな。さ、書いてみて」


 そういうと、樹は新品の古代墨をとりだした。


「え……もったいないですよ」

「前にも言ったと思うけど、命式を書く時、かのえ先生は必ず新品の古代墨を使うんだ。僕にはわからないけど、そうしないといけない「理由」があると思う。そうじゃないと、物を大事するかのえ先生が、こんなもったいないことしないはずだから」


 確かに……みどりは、樹のことばがストンと心の中に落ちてくる音を感じた。


「わかりました」


 みどりは、「茶道口」のふすまを開けて、給湯室に入ると、ながしですずりを洗った。水滴をキッチンペーパーで綺麗に拭き取って、葵の間に戻る。

 そして、水筒に入った水をすずりを入れて、ちょっと遠慮気味に言った。


「あ、あの、外に出て……もらえます?」

「えー! おばさん、みどりちゃんのお習字みたい〜!」


 春美が、頬をふくらませる……一体、何歳なんだろう。みどりは話せば話すほど、春美のことがわからなくなっていた。


「だよね……でも、ごめん、できれば命式を書く時は、僕も一緒にいたいんだ。何か、アドバイスできる事があるかもしれないし。なるべく、じーっと、見ないようにはするからさ。」

「えー! いっくんだけズルーイ。ねえ、みどりちゃん。おばさんもいていいでしょ?」


 みどりは樹をちらりと見た。やんわりと、春美の退場をうながして欲しかったからだ。でも……。


「しょうがないな。今日だけだよ」

「やったー! いっくんだいーすき!」


 みどりは裏切られた気がした。でも、自分の口で言わなかった自分が悪い。そう、観念して、樹から新品の古代墨を受け取った。


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