第6話

 畳の上に、書いた書がそのまま置かれてある。その先には、総理が、みどりをじっと睨んでいる。


「先生、どうしたのですか? わたくしは、なぜ、オリンピックの最中に総理を辞任するんですか?」


 頭の上から、刺さるような総理の声が聞こえる。


  ひゅう。


 息が乱れる音がした。何度目をこらしても、天鵞絨の海に入れない、何も変わらない。


  ひゅう。ひゅう。ひゅう。


 呼吸が乱れる。額から、玉のような汗が吹き上がってくるのがわかる。


「……先生」


 たまらず、樹が声をかけた。そして、パソコンを持ち、みどりの前に二つの文字を見せた。


……庚辰……


「総理の現在の〝大運〟です。なにか見えませんか?」

(大運?)


 みどりには、樹の言葉の意味はわからなかった。でも、


「庚辰……あ!」


 八字の中に、樹のパソコンと同じ〝庚辰〟を見つけた。

 書の中の〝庚辰〟が揺らぎ始めた。〝庚〟がゆっくりと下に動いて見える。そして〝辰〟と重なった。


「あぁ!」


 思わず声をあげてしまった。

〝辰〟から、じんわりと色がもれてきたからだ。みどりも毎朝、必ずこの色をした物体を見る。たちまち顔が真っ赤になる。


「どうしたのかね?」


 総理がみどりに詰め寄る。


「あ、あの・・・本当に言わないとダメですか?」


 総理がため息をつく。


「言ってもらわないと困る。さあ、なぜ、安芸謙三はオリンピックの最中に総理を辞任するのかね?」

「………………」

「? みどりちゃん?」


 樹が心配をして声をかける。それでも、みどりは押し黙っていた。


「答えたまえ!」


 総理の叫び声が聞こえる。みどりは観念して、総理に、今、見えた事を、言うことにした。でも、とても目を合わせられない。


「あ、あの、総理がお漏らししちゃうから……ウンチ。」


 怖くて恥ずかしくて、顔をあわせられないみどりは、顔をまっかにしながら、下を向いたまましゃべりつづけた。


「なんだか、今も我慢していて、ずっと我慢してたら、もらしちゃったみたい・・・特に来年はもっと我慢しなくちゃだめで、総理だけじゃなくて、みんな大変なんだけど、でも、やっぱり総理がいちばん大変で、ずっと無理して・・・その、もらしちゃたみたい・・・」


 みどりがしゃべり終わると、葵の間は静まりかえった。


「総理、もしかしたら……持病が再発しておられるのでは?」


 樹がじっと総理を見つめる。総理は上を向いてため息をつくと、観念したようにつぶやいた。


「おっしゃる通りです。だが、オリンピック期間に辞任など……」

「やめないと死んじゃうよ?」


 みどりは、総理の言葉を遮った。


「お母さんの書が、すっごくイヤな色になんです。だぶんだけど総理はきっと、来年すごく大変で忙しくなるはずです。日本が……ううん、世界中が! でも、このままだと……このまま総理を続けると、死んじゃいます。それでも、続けるつもりですか?」


 みどりは、あんなに怖かった総理の目をまっすぐ見て言った。これだけは、どうしても伝えないといけない。そう思った。


「……わかりました。心に留めておきます。ありがとうございました」


 そういうと、総理は正座をしたまま深く一礼をし、にじり口から出て行った。


「おつかれさま。よくがんばったね。」


 樹が、笑顔で話しかけてくる。大きいけど細い手は、みどりの頭をそっとなでた。


  ひゅううう。ひゅううう。ひゅううう。


 喘息の発作が止まらない。

 みどりは、胸ポケットからエプチンエアーをとりだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る