第5話

「葵先生、いらっしゃいますか?」


 にじり口の外から、総理の声が聞こえた。


(ほら、みどりちゃん)


 樹が催促の声をかける。


「お、おはがりください」


 うわずった声で、思いっきりかんでしまった。


「失礼します」


 にじり口の襖が三分の二ほど開く。そしてすこし間を置いて、ゆっくりとにじり口が全開になる。総理の顔が見えた。

 総理は、にじり口から、はって葵の間に入ると、振り向いて『ピシャリ』と音を立ててふすまを閉じた。茶道の作法と同じ入り方だ。


 ただ、この葵の間には、床の間は無い。総理は、みどりの目の前の客畳に直行し、そのまま正座した。


「先生、よろしくお願いいたします」


 総理が丁寧なお辞儀をする。みどりもつられてお辞儀した。


「二度の御足労、誠にありがとうございます」


 後ろから、樹の声が聞こえる。


「先代の突然のご不幸、心からお悔やみ申し上げます。先生におかれましては、喪に服す間も無く、わたくしにこのようなお時間をいただき誠に光栄でございます」


 頭を下げたまま、総理が答える。

 しばらくの沈黙。心臓の音がはっきり聞こえる。どれくらいの時間が経ったのだろう、沈黙に耐えられなくなったのか、樹が言葉を発した。


「頭をお上げください。それでは早速、鑑定のつづきを行いましょう」


 総理につられて、ずっと頭を下げていたみどりは、慌てて頭をあげた。


 すでに正面を向いている総理が、こちらを見下ろしている。その顔は、テレビでは一度も見たことのない恐ろしい顔だった。見下ろしているではなく、見下されているというか・・・とって喰われるのではないか、そんな刺すような眼差しだった。


「さて、前回はこちらの三枚の書をおみせしたところで中断していたのですが……」

 そういいながら、樹は三枚の書を総理とみどりの間にならべる。

「では、先生、書評をお願いします」

「え?」


 書評って? 聞いてない、お母さんの書を私が評価するの?


「ええと、どれも素晴らしい書です。母が書きました。母は、私の書の師匠なのですが、いつも、とても素晴らしい書をしたためます。私も早く母のように……」

「ううん!」


 樹が咳払いをした。


(・・・ここに書かれている文字の感想じゃなくて人の感想・・・を言えって事なのかな?)


 みどりは、目を閉じで集中した。ひょとしたら、学校で、お母さんが亡くなる直前に書いた、あの書みたいに、文字が光るかもしれない。文字が光って、動いたり、消えたりするのかもしれない。


 大きく息を吸った。


  ひゅ。


 ちょっとだけ、喘息で息がかすれる音がする。


  ふぅううう。


 息を吐いて、ゆっくりと目を開けた。


  ・・・え?


 あたりは、海になっていた。時刻は日の出前だろうか。薄暗い中、ほんの少しだけ水平線が光って見える。その光に照らされて、海は深い緑、天鵞絨に輝いている。そして、海の上に三枚の書が波に揺れていた。


 ひとつは、緑色に、ひとつは青く、もう一つはピンク色に光っていた。しばらくみていると、ピンクに光った書が、ゆっくりと水にむしばまれて沈んで行った。そして、青い書の光が、緑色の光に吸い込まれていく。

 みどりは、緑色に輝く書を、水の上からそっとすくいとった。


「この書だけが光っています。綺麗な、うすい緑色です。隣の書の、濃い青い光を吸い取りました。ピンク色の書は勝手に消えました」

「なるほど・・・」


 どこからか、総理の声がする。


「では、先生、いつ総裁選を行えば良いですか?」


 海の中に、三枚の新しい書がただよってきた。


丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑

戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑

庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑


 最初に置かれた書は、すぐに海に沈んでいった。

だけど、一番下にかかれた〝丁丑〟の文字だけが、なぜか海を漂っている。


 いやな色をしている、灰色と茶色を混ぜたような。異臭が漂うような色。そして、その色が見る見るうちに残りの二枚に染み渡っていった。

 みどりは目を背けたくなった。お母さんの書が、こんなに汚くなるなんて。でも、目をはなすことができなかった。はなしてはいけないような気がした。やがて、真ん中に置かれた書の一つが、鈍く光り始めた。ステンレスのようなシルバー。ゆらゆら揺れている。強く光ってるけど、今にも消えそうな、不思議な感覚


 みどりは、その文字を指差した。


「ここです」


 みどりは、指をさしたまま、その文字を見続けた。

  ……甲申……


 ゆらゆらゆらゆら、シルバーに光る文字は、苦しそうにのたうちまわっていた。


「馬鹿な! 君は何をいっているんだ? 正気かね⁉︎ 来年の八月だぞ! 私がオリンピックの真っ只中に辞職をする訳ないだろう‼︎」

(え?)


 いつの間にか海は消え去り、そこは葵の間だった。目の前には、怒りを隠さず睨み付けてくる総理がいた。なぜか怖くなかった。みどりの心は、とても穏やかだった。むしろ、ちょっと、かわいそうなかんじがした。視線を下に落とすと、母の書が置いてあった。みどりは、三枚の書のうち、真ん中の書、


 甲申


 を指差していた。横には小さく「二〇年八月」と書いてある。


「どう言うことか、説明してもらおうか!」


 総理の眼が、まっすぐみどりをにらみつける。みどりは、しずかに言った。


 「総理の書を書かせてください」


 みどりは、右後ろにいる樹の方に振り向いた。


「樹さん、総理の八つの文字を教えてください」

 樹には、明らかに戸惑っているようだった。だが、

「おねがいします。」

 みどりが少しだけ語気を強めると、無言でうなずいた。そして、そばに置いてあったパソコンを操作して、すぐにみどりに差し出した。

「こちらです」


 樹はパソコンを置くと、すぐ後ろにある茶道口(さどうくち)のふすまを開けた。


「書の準備を、ととのえて参ります」


 樹が、茶道口のふすまを閉じると、総理と二人きりになった。

 みどりは、とても心がおだやかだった。しばらくの沈黙のあと、総理が大きなため息をついた。そして、わざとみどりに聞こえるように、ひとりごとをつぶやいた。


「こんな子供に何がわかるんだ・・・」総理の冷ややかな瞳がみどりに突き刺さる。


 みどりの心は、とても穏やかだった。呼吸も、とてもおだやかだった。


「ただいま戻りました」


 茶道口が静かに開く。樹が書道道具を持ってきた。見慣れたすずり。母が愛用品だ。筆は新品だった。そして、桐の箱がひとつ、置かれてあった。

 みどりが桐の箱を開けると、舟形の墨が入っていた。誕生日にもらった古代墨だった。


 みどりは、すずりに水を入れると、ゆっくり墨を擦り始めた。

 総理は、その姿をじっと見ている。たまらず、樹が声をかけた。


「しばらく時間がかかります。書が完成するまで、駿府亭でおくつろぎなさいますか?」

「いや、結構」


 総理は、みどりをじっと見ている。いや、睨んでいる。みどりは、そんな総理に気づいていないのか、無心で墨を擦っている。

 樹は、時間がとてつもなく長く感じた。この状況で、みどりは、どうして落ち着いていられるのだろうか。


「準備は整いました。では書きますね。」


 みどりは、大きく息を吸って、樹のノートパソコンに映し出された、八文字を書き

出した。


……甲午……

……癸酉……

……庚辰……

……戊寅……


 みどりは、大きく息を吸った。喘息のイヤは音は聞こえない。


 ふぅううう。


 ゆっくりゆっくり、息を吐いた。きっと、また、あの天鵞絨の海が見えるはず。

みどりは、ゆっくりと目を開けた。


「あ……あれ?」


 そこは、葵の間のままだった。


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