第2話

  ひゅう、ひゅう、ひゅう。


 タクシーの中、みどりの喘息は激しさを増していた。

もう何回、メプチンエアーを吸い込んだろうか。付き添いでタクシーに同乗してくれた柳先生が、ずっと、みどりの背中をさすり続けてくれている。


「葵さん、おちついて、もうすぐ病院だから。」


 楽器専門店の通りが見えなくなった頃、タクシーはおっきな病院にすべりこんだ。 

 柳先生がSuicaで速やかに会計をすますと、みどりを引率して、まっすぐ集中治療室を目指す。


「葵さん、おちついて、お母さん絶対大丈夫だから」


 柳先生は、ふるえる紫色の唇を動かして、必死にみどりの心を気遣ってくれる、右手は、ずっとみどりの背中をさすり続けている。

 みどりはなんとなく、わかってしまっていた。


 お母さんは、もう助からない。


 必死に平静を装っているけど、柳先生は、くちびるどころか、顔全体が紫にそまっている。


  ひゅう。ひゅう。ひゅう。


 みどりは、セーラー服のタイのうえから、胸をギュッとおしつけながら、足早に集中治療室に向かう。てのひらに、波打つ心臓の鼓動が聞こえる。

 集中治療室についた。中からは、一切物音が聞こえない。みどりは、おそるおそる集中治療室の引き戸を開けた。


 瞬間、みどりに向かって、たくさんの視線が突き刺さる。けれど、目を合わせようとすると、すぐさま顔を背けてしまう。

 目があったのは、ふたりだけ。メガネをかけた若い男の人と、白衣を着た女医さん。

 女医さんは、みどりに向かって、ゆっくりと語りかけた。


「葵かのえさんの、娘さんですね」


 無言でうなずくみどりを確認して、女医さんは限りなく感情を出さずに、務めて機械的に言葉を発した。


「令和元年、十月十四日、五時十三分、御臨終です」


 肺の鉛が一気に重くなるのを感じる。


 息が……できない。


 みどりは、一歩一歩重い足取りで、お母さんが寝ているベッドに向かった。そして、倒れるようにベッドによりかかった。お母さんは、目を閉じ穏やかな顔をしている。


「ううううう……」


 口に手を当て、柳先生が大きな声で泣いている。柳先生の声を聴きながら、みどりは泣くことができなかった。それどころではなかった。息ができない。『呼吸をする方法』がわからない。

 意識がもうろうとしていたみどりは、そのまま母の上で倒れ込むように気を失ってしまった。


 ・

 ・

 ・


 ザザーン。ザザーン。


 海の音が聞こえる。砂浜だろうか。いや、海の上だ。みどりは、海の上に立っていた。

 一面の水平線。まるで鏡のように穏やかな海の上。水面に深緑色のセーラー服を来た自分の姿がハッキリと写っている。

 あたりが、ものすごい勢いで、赤く染まっていく。夕暮れだ。夕暮れがものすごい勢いで迫ってきている。


「……みどり」


 振り向くとお母さんがいた。大きな太陽を背負っていて、逆光で顔がよく見えない。


「良かった。ギリギリ間に合ったよ。はぁ、これで安心できる。もう、みどりは一人前だ」


 お母さんの顔は笑っていた。逆光で、顔は見えないけど確かに笑っている。そう感じた。


「お母さん。わたし、これから……どうすれば。」


 周囲がどんどん暗くなっていく。太陽がどんどん沈んでいく。お母さんがどんどん見えなくなっていく。


 ドボン!


 いきなり地面がなくなった。いや、今まで水の上に立っていたのがおかしかったのだ。水は、ただの水に戻ったのだ。

 みどりはもがいた。水の中で、もがいてもがいてもがき続けた。このままでは息ができない。おぼれて窒息してしまう。お母さんと会えなくなってしまう。


(お母さん……)


 目が覚めると、そこは病院の個室だった。殺風景な部屋の中、みどりはベットに上に寝かされていた。左手には点滴がささっている。

 あたりを見回すが、誰もいなかった。 ふと、ローチェストの上に、メモ書きがおいてあるのに気がついた。


『目が覚めたら、ナースコールを押してください』


 みどりは、言われるがままにコールボタンを押すと、すぐに声が聞こえてきた。


「あ、目が覚めた? すぐに行くから」


 ナースコールが切れると、個室はしんと静まり返っている。

 目の前でおかあさんが死んだのに、泣くこともできなかった。喘息でそれどころではなかった。自分がとても冷たい人間に思えた。人の事より、自分の体の方が大切な、自分勝手な人間に思えた。


 今ごろ、涙が出てくる。この涙は、お母さんが死んだことに対する、悲しみの涙なのだろうか、それとも、自分の、貧弱で身勝手な身体のふがいなさからくる、くやし涙だろうか。わからない。ただただ、涙がとまらなかった。


 コンコン。


「葵みどりさん? 入っていい?」


 ノックに気づいて、みどりは、涙でグシャグシャになった顔を、シーツに押し付けて涙をぬぐい去ると、


「はい」


と、消え入りそうな声で答えた。


 病室に入ってきたのは三人。集中治療室にいた女医さんと、サイズの合わない、大きなネイビーのカーディガンを着た細身でメガネの若い男の人、そして、スキンヘッドでマッチョでスーツ姿の、三十代くらいの怖そうなオジサン。


「どう? 調子は?」


 女医さんが、精一杯の笑顔で訪ねてきた。


「は、はい。おかげさまで」


 みどりも精一杯の笑顔を作って、返事をした。


「……お母さまのこと、お話してもいい?」


 みどりはうなずくと、女医さんは小さな咳払いをしてから、話し始めた。

 お母さんは、仕事中・・・日本橋にある料亭『駿府庵』で接客中に突然倒れたらしい。死因は脳卒中。この病院に運ばれてきたときは、すでに心肺停止の状態だったらしい。手のほどこしようがなかったと。


 お母さんの病状を話した後、女医さんは、男の人を退席させて、みどりの診察にとりかかった。聴診器で肺の音を聴き、口の中を調べ、脈拍と体温を測る。


「とりあえず、今は喘息も安定しているみたい。でも、しばらくは入院してください。あなたもかなり衰弱しているから」

「え……でも、お母さんのお葬式とかは、どうすれば」

「そっちは、大丈夫みたいよ。親戚のお兄さんが全部やって下さるって。まず、あなたは、しっかりと体調を回復させることに専念すること。いいわね」

「え?」


何の事だか、さっぱりわからない。みどりは、女医さんに質問しようとすると。女医さんはスタスタと、病室のドアに向い、静かにドアを開けた。


「お兄さん、診察おわりました」


 女医さんの言葉を受けて、さきほどのふたりの男の人が入ってくる。サイズの合わない大きめのカーディガンを着たメガネの男の人と、スキンヘッドマッチョスーツのオジサンだ。残念ながら、みどりの顔見知りの「お兄さん」はいない。でも、


「ありがとうございました」


 女医さんにお礼をするカーディガンのメガネの人が『親戚のお兄さん』なんだなと、なんとなく想像がついた。

カーディガンのメガネの男の人は、女医さんが立ち去るのを確認してから、みどりに話しかけてきた。


「ぼくのこと、覚えている? 駿府亭の次男、甲本こうもといつきなんだけど」


 目を細めて笑っている。そして、優しい声。でも、なんとなく、声と表情が合っていない気がした。

 みどりはゆっくり首を横にふると、


「そうだよね。最期に会ったのって、君が確か三才の時だったはずだから」

「親戚って?」


 駿府亭は、お母さんが勤めている料亭だから、当然知っている。だけど、親戚がいるとは聞かされていない。


「ごめんね。女医さんに説明する手前、親戚ってことにさせてもらったよ。乙葉(おとは)先生。遺言書をみどりちゃんに読んであげていただけますか?」


 乙葉先生と呼ばれたスキンヘッドマッチョスーツは、無言でうなずくと、アタッシュケースから、一通の封筒をスマートに取り出した。そして無表情のまま、封筒から手紙を取り出すと、しゃがれた声で手紙を読み始めた。


「遺言状。葵かのえが死んだ場合、その一切の財産は、娘の葵みどりに相続する。

 ただし、みどりが成人するまでは、甲本家がその後継人となる。みどりが成人するまでの一切の養育費は、甲本家が援助するものとする。

 葵流・四柱推命、二十三代目当主には、葵みどりを任命する。葵みどりは、葵かのえの死後すみやかに、その任につくこととする」


 みどりは、言っている意味のほとんどを理解することができなかった。しゃがれた声が、聞き取りづらいのを差し引いても、全く意味がわからなかった。

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