みどりの八字
かなたろー
第一章 たったひとりの書道部員
第1話
二〇十九年十月十四日
四畳半の小さな畳間と、給湯室がしつらえられた小さな部屋。
私立茗荷谷女大付属小学校の六年生、葵みどりは、放課後、毎日この第二茶道室におとずれる。
第二茶道室に入ったみどりは、おおきく息がみだれていた。そして、
ひゅうう。
喘息を患っている人特有の呼吸音を鳴らしていた。あわてて、セーラ服の胸ポケットから、メプチンエアーを取り出す。喘息の発作を抑える吸入剤だ。
みどりは、エプチンエアーのキャップを外して、肩で大きく息を吸いながら、薬を口にあてがう。
ふうううううぅ。
ゆっくりと息を限界まで吐き出して、エプチンエアーの押しボタンを強く押し切る。
シュカ。
大きく息を吸い込んで、噴霧された薬を、肺の中いっぱいに取り込んでいく。もう一度……今度は、さっきよりも、もっと大きく息を吐き出して、
シュカ。
みどりは、手のひらを、セーラ服の白いタイの上に置いて、大きく息を吸い込む。肋骨、そしてその奥にある、肺の動きを感じながら、ゆっくりゆっくり息を吸い込む。肺の隅々に、薬が行き届いているイメージをめぐらせながら。
薬を吸っても、すぐに喘息が治るわけではない。
大きく長く息を吸って、吸う時の二倍、ゆっくりと時間をかけて息を吐き出す。何度も何度も、吸って、吐いて、吸って、吐いて。少しずつ『呼吸をする方法』を思い出す。
なんでもない、ふつうなら意識なんてしなくてもできている『呼吸をする方法』を、頭の中で必死に思い出さないと、息ができなくなってしまう。
まるで、肺の中に鉛をねじ込まれたみたいな感覚。息も重くなって、体も重くなって。このまま一生『呼吸をする方法』を忘れてしまうのではないか。そんな恐怖が、おでこに浮かんだ、玉のような汗と一緒ににじみ出す。
みどりの喘息は、この時期が一番ひどくなる。十月生まれなのに、昨日なんて誕生日だったのに。みどりはこの時期が大嫌いだった。
五分くらい経っただろうか。みどりは、自分が『呼吸をする方法』を思い出している事に気づいた。ようやく、クラブ活動を始めることができる。
すずりを置いて、そのとなりに黒い下敷きを起き、半紙をセットしてそっと文鎮を置く。そして、茶室を立って給湯室に向かう。
すずりに水を貯めるため、そして、口や喉に必要以上にこびりついている、余分な薬をうがいで洗い流すためだ。
手のひらで水をすくって、ガラガラと喉の奥を三回ゆすいでから、すずりに水をそそぐと、水を貯めたすずりを半紙の横に置いた。
そして、ひとつ、大きく息を吐き出してから、ランドセルの中から、丁寧にラッピングが施された、小さな包みを取り出した。
深い緑色のラッピングに、真っ白なリボン。ちょうど今自分が着ている、セーラ服と同じカラーリングだ。
リボンを解いて、丁寧にラッピングを外す。桐の箱をそっと開けると、ほのかな
梅の匂いがする。包装紙の振香(ふりか)の匂い。
包装紙を外すと、小さな、船の形をした墨が現れた。墨を松で焼いた、松煙(しょうえん)の古代墨。昨日、お母さんのからもらった誕生日プレゼントだ。
「みどり、誕生日、何か欲しい物ある?」
二週間ほど前、お母さんが聞いてきた。普段は贅沢を嫌う母が、誕生日の時だけは、なんでも買ってくれる。
十月十三日の誕生日合わせて、十月の頭頃までには、誕生日のプレゼントをリクエストするのが、お母さんとの毎年の行事になっていた。
「……墨がいいかな。ちょっと良い墨」
みどりがぽつりとつぶやく、お母さんは一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止めた。だがすぐに、笑顔でこう答えた。
「墨ね。たしかに、みどりもそろそろ練習用の墨は卒業してもいいころだと思うよ」
シングルマザーのお母さん、かのえは、クラスの友達の母親たちと比べると、かなりしつけに厳しい親に思える。
日本橋にある老舗料亭『
昼ごろに起き出すお母さんの代わりに、朝ごはんはみどりが作り、夜、お母さんがまとめておいてくれたゴミを出して学校に登校する。
そして学校から帰ったら、お風呂掃除と、お母さんが出勤前に干しておいてくれた洗濯物を取り込んでたたむのも、みどりの担当だった。小学校に入学してから、もう五年以上の習慣になっている。
「私がいつ死んでも困らないように、炊事、洗濯、掃除、最低限のことは覚えておきなさい」
小学校に入ってからの、お母さんの口癖だった。
クラスの友達に話すと、いつも、信じられないような顔をされる。けれども、みどりには、クラスメイトが不思議がるのも当然のことのように思えた。わたしとは、住む世界が違うのだ。
茗荷谷女子は、都内でも有数のお嬢様学校だ。小岩にある築三十年の2DKのアパートに、お母さんとふたりで住んでいる自分の方が、ここでは「変わっている」のだと思う。
お母さんは、質素倹約を良しとする・・・平たく言えばケチだと思う。だけど、習い事、特に習字道具に関しては、ちゅうちょなく高級品を買ってくれていた。
誕生日プレゼントのこの墨も、文化祭の展示作品用の、とっておきに使おうと思っていたら、
「構わないよ。普段使いでどんどん使っちゃいなさい」
と、ラッピングとは別に、ケースで買った一ダースの古代墨を取り出した。
「みどりはもう、これで書く実力が充分に備わっているから」
船の形をした古代墨を、ゆっくりとすずりにすり付ける。
シュッシュッシュ。
墨と硯がすれ合う、心地よい音に合わせて、ゆっくりゆっくり息を吐いていく。
ゆっくりゆっくりと、墨が水の中に溶け出していくのにつれて、肺の中の鉛が、ゆっくりと溶け出していくような気がする。十分間、じっくり墨をすり続け、字を書くのに頃合いの濃さになってきた。
今日は何を書こうかな。
墨を置いて、筆を構える。すずりに溜まった墨を含ませ。半紙に字をしたためる。
……芋ようかん……
みどりの大好物だ。
書道部には、柳先生という顧問がいるのだけど、隣の第一茶道部の指導につきっきりで、書道部がある第二茶道室にはほとんど顔を出さない。茶道部の活動が終わって、下校時間が迫ったときに、
「葵さん、そろそろ帰りなさい」
と、一声かけるだけだった。
みどりの書道の先生は、お母さんのかのえだ。仕事先の料亭『駿府亭(すんぷてい)』で、お客さんに差し出すおしながきを書いているお母さんは、それはもう、うっとりするような美しい字を書く。
入部したての四年生の頃は、家に持ち帰った半紙に、毎回、朱色の筆で添削をしてくれていた。
ただ、今は、よっぽどのことがないと添削をされることはない。みどりの書の腕前は、かなりのものだった。
「また、芋ようかん? みどりは本当に芋ようかんが好きね」
今ではもっぱら、みどりが自由気ままにしたためた書を見ながら、それを話題に会話をする、それが、葵家の『家族だんらん』だった。
アニメや漫画のキャラクターや技名を書いたり、晩ご飯のリクエストを書いたり。お笑い芸人のギャグのフレーズを書いたりもした。
自分の書いた文字で、お母さんと話すのはとても楽しかった。
次は何を書こうかな……三十枚ほど書いたところで、書きたい文字がなくなってしまった。
おろしたての古代墨は、練習用の墨とは明らかに違う。明るく少し青みががった美しい発色。筆のすべりが違うと言うか、自分の文字にオーラがかかったような。不思議な高揚感に包まれる。書いても書いても書きたらない。いつまでも書いていたくなる。そうだ。お母さんの書を模写してみよう。
丁亥
庚戌
庚辰
丁丑
葵みどり
みどりの部屋には、お母さんの書いた書が額縁に入れてかざられていた。
自分の名前と共に、八文字の漢字が書かれている。
下の文字は、十二支を表す動物たち、上の文字は昔、学校の成績表とかにも使われていたらしい。
正直なところ、書かれた文字の意味はわからなかったけど、みどりは、お母さんが書いた八つの文字が大好きだった。
この文字を見ているととても落ち着く、ちょっと変な表現かもしれないけれど、自分の内面と対話できるような気がする。本当の自分と対話できるような気がするのだ。
出来上がった書は、母には到底及ばない、未熟な文字だった。でも、
(これは、お母さんに褒められる!)
そう、確信できた。
書道を初めて二年と半年、はじめて、自分の想像の中にある、理想の文字を表現できたような気がした。
もし、書の極意があるのでれば、自分は今この瞬間、その入場券を、手に入れたのかもしれない。お母さんと同じように、書道を仕事にできるかもしれない。
あれ?
突然、一番最初に書かれた〝丁〟が、赤い炎が燃えるように飛び散っていくのが見えた。そして〝亥〟の事が、じんわりと滲んでいって、水の中に溶けるようになくなっていった。驚いて目を擦って再び目をこらすと、書は八つの文字に戻っていた。
疲れたのかな。ちょっと、調子に乗って書きすぎたのかもしれない。
今日はもう帰ろう。みどりが習字道具の片付けを始めた時、突然、背後のドアが開いた。
「葵さん!」
顧問の柳先生が、息を切らしながら入ってきた。心なしか、唇から血の気がひいてムラサキ色になっている。
「お母さんが、職場で倒れたそうよ! タクシーを呼ぶからすぐに病院に向かって!」
ひゅうう。
一気に呼吸が乱れる。みどりは、喘息の発作がぶりかえしてくるのがハッキリと自覚できた。
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