花霞奇譚

とじしろわだち

0 花霞

 浅野花霞は人より目がよかった。単なる視力も、眼鏡やコンタクトレンズなんてものとは縁遠く、視力検査は人よりも早く終わっていた。それに、人や動物の状態についてもよく勘が働いていた。会話の合間にほんのひとつだけついた咳から病気の気を見出し、実際にその子はインフルエンザに罹っていた、なんてこともあった。学校でメダカの飼育係をしていて、もうじき亡くなってしまいそうな子の予測もなんとなく立てられて、他の人よりも早く死への覚悟を持つことができていた。その程度ならば、生きるのに困らないばかりか、ほんの少し役に立つのだからよかったのかもしれない。だが、花霞には他の人には見えないものも見ることができていた。それはお化けと呼ばれるものだったり、妖と呼ばれるものだったりした。


 幼いころ、それもまだ五歳にも満たないくらいの時期は、日々の新たな発見をいちいち言葉にしたがるものだから、母や父に「あれは何?」と一反木綿のような薄くて長い和紙に目玉がついた飛行物体を指差しても、両親は「ごめんね。よく見えないや」と答えるよりほかなかった。父はともかく、母の方は花霞がくっきり見えている妖の姿が、ぼんやりとした靄くらいには見えていたから、花霞にはきっとそれが遺伝して、強く表れるようになったのだろうというくらいに捉えていた。父の方は、自分にはちっとも見えない存在について色々と喋る花霞のことを不思議には思っていたが、気味の悪いものだと忌避するようなことはしなかった。ただ、代わりにどうしても分かり合えない壁のようなものを感じていて、自分の娘だというのにも関わらず、会話に躊躇をしてしまうこともしばしばであった。


 それに、父親として危惧していることもあった。他とは明らかに違うところがある自分の娘のことを、言っていることが分からないからという理由でいじめられる、などということがあるのではないかということである。いじめられるくらいなら、多少人よりも我慢をしなければならないのかもしれないが、その原因を排除した方がよい。本来ならば脳の医者にでも診てもらって、お化けや妖を見てしまう種のようなものを取り除いてもらう必要もあるのかもしれない、とは考えた。しかし、それは本人が自分の持つ性質に対して善悪なり必要不必要なりの判断をつけられるようになってから決めることでもよいだろうと考えていた。だから、刈り上げた横髪を掻きながら、幼少の花霞に「これからちょっと不思議な生き物がいるなって思っても、それを簡単に口にしちゃいけないよ。ほかの人にもちゃんと見えているって分かってから話に入るようにしようか」という難儀な約束を交わしてしまったのである。父の眼鏡の奥にある瞳はとても真摯だった。


 幼少の頃は、花霞は利口な娘だったから父の約束を守って口を慎むことができた。大丈夫でいられた。巨大な岩みたいな生き物がいても、足のない白装束の女を見たとしても、じっと見つめるばかりでその発見に対する喜びや驚きを口にすることはなかった。


 ただ、十歳を過ぎて思春期が訪れると、花霞は自分の異質さを強く自覚するようになっていた。他人に見えなくて、自分にだけ見えるものがある。そして、見えてしまうことが他の人にバレてしまえば、きっと自分の身に不幸なことが起こってしまう。父が約束をした意味を分かり始めていたのだった。そうして、父親が考える不幸に陥らないような身の振り方を徐々に覚えていった。


 しかし、花霞は良くも悪くも好奇心の強い子であった。授業中も、友達と遊んでいるときも、気になった妖を見てしまえばそこに熱い視線を送って、ぼうっとしてしまうときが多々あった。すると、当然周囲はそれを不思議がり、「どうしたの?」とか「何かいるの?」と問いかける。その瞬間、花霞は他者には自分が見えているものが他の人には見えていないのだと悟り、「んーん。なんでもない」と上手くかわしていた。それができているうちはよかったのだ。いや、あえてそれをしないという好奇心を働かせたのがいけなかったのだ。


 小学六年生のとき、花霞のクラスの女子の間では「こっくりさん」が流行っていて、よく好きな人の名前や、その人と付き合えるかどうか、テストで良い点が取れるかどうかみたいなことを聞いていた。花霞はこっくりさんで遊んでいるのを見かける度に、十円玉を持つ手の上に手のひら大の狐の妖が現れているのが見えていた。そして、その狐が色々教えてやった見返りに食べ物を欲していることも知っていた。「おかえりください」と言われても、もの欲しそうに顔を覗いたり、指先を舐めたりしている姿を見る度に、心に針が刺さるようないたたまれない心地になっていた。それに、どうしても言いたい。言ってみて、この子たちはどんな反応をするのだろうかと気になってしまった。


 だから、つい口を出してしまったのである。

「狐さんが、食べ物頂戴って、訴えてる」

 こっくりさんをやっていた三人の少女たちは、一斉に花霞を見ると、「何、言ってるの?」と返した。

「いや、だって、いるから。見えるから。私。こっくりさん」

 少女たちの手の上にいるこっくりさんを指さして言うと、一人の少女が癇癪を起して声を荒げ、十円玉から手を離してしまった。それに驚いたほかの子も、咄嗟に指を離してしまい、その拍子に彼女らが押さえつけていた十円玉が床に落ちた。狐も、一緒になって床に落ちていってしまった。

「あっ」

 少女の一人が、何か恐ろしいものを見てしまったかのような目つきで、手から離れた十円玉を見てしまった。

「これ、ヤバい。指離しちゃったら、霊が出てきちゃうって」

「あれ、確か、呪われるって話じゃなかったっけ」

 少女たちが恐れをなして顔を見合わせていると、その足元で、狐の目が赤く光った。

「ちょっと!カスミどういうつもり!?」

「あんた、知ってて変なこと言ったんでしょ。私たちを驚かせて、呪わせてやろうって!」

 三人の少女は一斉に席から立ち上がり、花霞に詰め寄った。

「いや、私そういうつもりじゃ」

 後ずさりしながら、壁際にどんどん追い詰められていく。その途中で、怒りながらも怯えている不安定な表情の少女たちの向こう側に、小さかった狐が大きくなっていく様を見てしまった。同時に、床から狐の額に向かって浮かび上がっていく十円玉も。それはまるで、指を離した少女たちを狙う弾丸のようで。

「危ない!」

 花霞は咄嗟に、正面にいた少女を突き飛ばした。尻もちをつく少女。狐は今にも弾丸を飛ばそうと、コインの周りに白い光を集中させていた。花霞は狐に飛びついた。そして、転んだ。

 コインの落ちる音がした。そして、教室の窓が割れた。花霞の背後から悲鳴がした。花霞が顔を上げると、狐はどこかへと消えてしまっていた。

「え、カスミ?急にどうしたの?」

 花霞ははっとして後ろを振り向いた。突き飛ばしてしまった子は痛そうに腰を擦り、両脇の二人は怯えた目で花霞を、割れた教室の窓を見つめていた。狐が体当たりをして作った、乗用車が突っ込んでこないととてもできやしないだろう大きな穴から、うっすらとイチョウの匂いのする秋風が入り込み、一瞬の静寂を包んだ。

「何も、窓まで割る必要はないじゃない」

 尻もちをついた子が立ち上がりながら、花霞を睨んだ。

「先生、呼んでくるね」

 行こう、と言って、三人は教室の外へ行ってしまう。花霞は何かを弁解しようと口を開いたが、音は何一つ出ず、そのまま立ち尽くしてしまった。



 すいませんでした、と花霞は両親とともに担任の先生に頭を下げた。普段おとなしくしていた分、暴力沙汰というのは教師にも両親にも驚かれ、落胆された。だから、帰りの車の中で「どうして、こうなっちゃったの」と母が涙ながらに呟いたのに対して、「うん……」としか返事をできなかった。自分が「見える」人だと知られたらどのような反応になるか知りたかった、というのが今回の件の根源だと言ってしまえば、大目玉を食らうどころか呆れ果てられてしまうというのを薄々感づいていたからである。謝るでもなく、言い訳をするわけでもない曖昧な返事を浮かべるのが精いっぱいだったのである。泣きじゃくる母に、何も言わない父。こんなことになるのだったら、変な好奇心を湧かせなければよかった。狐のことも、気に掛けなければよかった。


 その次の日から、花霞は妖怪が見えるすごい人ではなく、わけもわからず暴力を振るう危険な人になってしまった。子ども、とりわけ小学生というのは事実をありのままではなく誇張して話すものである。子どもたちの間では、花霞は人に呪いをかけようとして、それが失敗したから暴れまわったのだ、という具合に話が流れてしまった。それがまた誇張され、「花霞に関わると呪われる」という噂まで流れるようになってしまった。それまで波風立てずに人間関係をやり過ごせていたのに、少しばかり欲を出したら一気に落ちるところまで落ちてしまった。花霞が盛り付けをする給食の列には誰も並ばなくなり、授業のグループ活動で組になってくれるものはいなくなり、持ち物はしょっちゅうなくなった。たまに良心を働かせたのか、花霞に話しかけてくれる人もいた。それは、以前から教室で飼っているメダカの飼育係として共に世話に付き添ってくれていた少女だった。花霞がメダカの住む水槽に餌を落としているときに、「花霞ちゃん。何か手伝うこととかある、かな。ほら、水槽の掃除とか」と陽気に話しかけてくれた。だが、花霞が「いいの?私に関わると呪われちゃうよ?」と言ってみたら途端に怯えたような顔つきになって、滑らかな会話はできなくなった。


 花霞の後悔は止まなかった。もういっそ、自分が消えてなくなれば楽になれるだろうか、ということも考えた。消えてなくなれば、今の状況から逃げられる。他の人を気にして人間関係をやり過ごそうとする努力をする必要もない。それに、お化けや妖怪を見ることもなくて、見たことを押しとどめておくことだって必要がなくなる。たぶん、これから生きていくことを考えてもずっとずっと楽なのだろうと思ってしまった。


 それから、花霞は自分をいたたまれなくする方法を探りだした。自分の首を絞めるか、自分の身体に包丁を突き刺すか、もしくは近所の深くて広い川に潜り込むか。自分を絶やす方法などいくらでもあるらしかった。だが、そのどれもには相応の覚悟とエネルギーが必要なのだということも理解していった。この世と別れるのも楽ではないのだとこのときに知った。それに、恐怖もあったのだ。だから、あと一押し。何かのきっかけがありさえすれば、というところであった。


 そのきっかけは存外早く訪れた。それは母の自傷だった。風呂に入ってから一時間以上も物音ひとつしないな、と父が気にかけて見に行ったら、水面に顔を漬けてぴくりとも動かない母の姿があった。母は花霞と一緒に学校に謝罪をした日以降、心を壊して精神科を受診していたのである。不眠もあった母は睡眠薬を処方されていたので、服薬のタイミングは夜の寝る前だと定められていた。日に日に精神の状態は安定しているように思えたが、不意に現れてきた衝動を抑えるまでにはいかず、この日はあえて入浴の前に薬を飲んだらしい。

 

 結果として、母は亡くならなかった。だが、「なんとか、助かったな」と言う父親に対し、母は微塵も喜びを見せず「そうね」とだけ声を溢した。長い前髪の陰に潜んだ目元にはくすみが見られた。花霞はそんな母の、心ここにあらずといったような表情を病院のベッドの横で見ていた。「どうして?」と花霞は訊きたくて仕方がなかった。けれど訊かなかった。答えは薄々分かっていたからだった。浅野花霞という存在がいること、それを産み出してしまったこと。母には直接伝えはしなかったが、自分が学校で酷い目に遭っていることくらいは分かっていたのだろう。母は、花霞が健やかに育つことを望んでいた。別に他の子に比べて特別に何がが優れているなんてことがなくてもいいというのに、他の人には見えない変なものが見えてしまい、そのせいでしなくてもよい我慢をさせてしまったこと。きっと、その我慢の積み重ねが徐々に不幸へと足を及ばせていたということ。苦しみの原因は母である自分にあるのだと思い詰めてしまったのだろう。そして、その罪の自覚を抱え続けながら生きていくことにも疲れてしまったのだろう。そういった諸々を、花霞は理解していたのだ。


 花霞は背の高い建物を物色しはじめた。学校、三階建てで屋上駐車場もあるデパート、駐車場に止まっている車が少ないアパート、広い川に架けられた大橋……どれも、頭から落ちさえすればうまくいくだろうと踏んでいた。特に、大橋に関しては建物の中に侵入する必要はないばかりか、石の面が見えるところに落ちてもよし、川の深く、流れの速いところに落ちるもよし、といった具合に好条件が揃っているようにも思えた。


 母が退院するよりも前に決行しようと心には決めていた。期限はたったの三日。それまでに、覚悟を決め、やることは少ないながらも別れの準備を進めておかなけばならなかった。


 手始めに、遺書でも書こうかと国語の授業で使っていたノートに手を付けた。

『拝啓 お父さん お母さん』


 そう書いてから、僅かに筆の動きが止まった。だが、花霞の覚悟はその先へと突き動かした。

『産まれてきてしまって申し訳ありませんでした。お父さんとお母さんは何も悪くありません。全部、私が悪いのです。私が変なものを見てしまう、ということがどれほど二人を苦しめて、悩ませたかは分かりません。私が苦しい思いをしないように、二人が努力してきてくれたことも知っています。前に、学校で暴力をふるったのは、私が他の人に見えることを教えてしまったのがきっかけでした。教えたら、やっぱりうまく生きることができなくなりました。二人の努力は正解で、私は間違えて、二人の努力を水の泡にしたのです。ごめんなさい。

 もう私は死ぬので、二人はもう楽になります。私が死ぬことで、また苦しめてしまうかもしれませんが、普通じゃなかった状態から、普通に戻るだけなので、あまり気にしないでください。』


 文字数が増えていくにつれて、字形は徐々に乱れていった。『あまり気にしないでください。』は、はじめて文字を書いた幼児のもののように、線が太く、波打っていて、それでいて大きさが不安定な、拙い文字だった。手の震えがいけなかった。

『今だって、どうしてと思っています。どうして、変な体質で産まれてきてしまったのだろうと思います。幸せが遠すぎるのも、どうしてなんだろうと思います。だけど、私よりもずっと、二人の方が不幸なのだろうと思います。こんな変な子を育てなきゃいけない責任なんて、本当はいらないんじゃないかって思います。だから、二人がこれから楽になれるように、私は消えてなくなります。

 今まで、ありがとうございました。』


 もう、字は字として認められないほどに崩れていた。手の震えもあるが、花霞が秘めている心のせいでもあった。その心は醜かった。産んだ両親のせいではなく、産まれた自分のせいだと宣う心は、決して文字の通りにあるものではなかった。どうしたって、上手く生きられないように産み育てたことについて復讐をしたがっているのだった。生きているときも、死に際も、綺麗になれない。どうしようもなくかなしかった。ノートの端に大粒の涙が落ちた。花霞は滲む紙の上に『これからどうぞお幸せに 敬具』と記し、ノートからその一ページを引き剥がした。とても丁寧なお手紙にはならなくて、それがまた気恥ずかしく、恨めしく、かなしかったので、小学校入学に伴って父が用意した学習机の上に、封もせず投げ置いた。ふと、時計を見ると、午後十時半を過ぎていた。


 花霞は腹を決めた。熱い鼻水を啜り上げ、目を覆う潤いを指で拭った。


 冬が迫る秋の夜で、上着を羽織らなければ肌寒くて仕方ない空気が広がっていて、きっと川も冷たくなっているだろう。いつも夕べにあの大橋のあたりを走っているランナーも、この時間であれば引き上げているだろう。父だって、そろそろ風呂に浸かる頃だ。覚悟だってもうできている。だから、もう今しかない。


 花霞は自室を飛び出し、なるべく音を立てないように、かつ迅速に玄関の扉を通り過ぎた。そして一目散に、広い川の大橋のある方へと駆けた。一度後ろを振り向いたが、ただ真っ暗な夜があるだけで、人影は一つもなかった。花霞の後ろ髪を引くものはもう何一つとしてなかった。冷たい空気を取り込む荒い呼吸の音、空気を切り裂く音、小さな歩幅で忙しなくアスファルトを弾く靴の音だけが花霞の耳に届いていた。赤信号で律義に止まっている義理もなかった。死へと急いでいる。その確かな実感が、普段よりも脚の動きを激しくさせた。河原へと向かう階段を上り、真っ黒い桜並木を何本も横切る。なだらかなカーブを曲がり、桜並木も途絶え、車両進入禁止の立て看板も追い越した。もう、例の橋だ。薄い雲がかかる空には光の強い星だけがまばらに散らばっているように見えた。でも、ああ、あれがカシオペヤだ。


 花霞は欄干を全身で撫でるようにして、逆さまに落ちていった。願っていた走馬灯にはせせら笑う声だけがした。自分のものでもない、ましてや知っている他人の声でもない、秋風のような笑い声だった。笑うよりほかない、とでも言いたいのだろうか。花霞の身体が、頭から水面へと辿り着く。ガラス玉一つ分の、ちっぽけな水しぶきがあがった。浮かび上がった身体を埋め込もうとする、意図なき川の流れ。掬い上げる、どんな車よりも大きな影。花霞は、河原の草原の上に添えるように横たわった。


 花霞は影に腹を踏んづけられ、大量に飲み込んでいた水を吐き出した。咳き込みながら影を見ると、月明かりのおかげで影の正体が大きな狐だと分かった。あの、こっくりさんのときに現れていた狐。目が赤く光っている狐。狐は黙ったまま、じっと花霞を見下ろしていた。何か伝えたいことでもあるのか、それとも救ってやった恩返しでも求めているのか。どちらにせよ、花霞は狐に対して怒りを覚えずにはいられなかった。上体を起こし、地面に拳を振り下ろす。

「どうして!どうして、助けちゃったの!」

 

 もはや悲嘆であった。夜の静寂に、花霞の声はよく響いた。ちっぽけな騒めきだった。死ねなかった苦しみと、生きてしまったかなしみがいっぺんに押し寄せて、花霞は涙をひたすらに溢した。せっかくの覚悟も台無しになってしまって、行き場のない怒りがこみあげて仕方がなかった。

「せっかく、消えることができたのに。消えれば全部、大丈夫になるって思ってたのに。どうして死なせてくれなかったの。どうして、許してくれなかったの!」


 花霞は全身を震えさせながら立ち上がり、狐の胴体に殴りかかろうとした。が、それを行う力すらなく、毛深い胴体にもたれるだけになってしまった。狐に埋まる花霞は、それでも弱い拳で「どうして」と泣き叫びながら狐の胴を叩いた。その、ぐっしょりと濡れた花霞の小さな頭に、狐は鼻先を伸ばして、頭を撫でるように当てがった。それは慰めなのだろうか。労りなのだろうか。同情なのだろうか。花霞には分からなかった。けれど、確かに狐の身体は温かくて、優しかった。狐の胴を滑っていくように身体を下に落とした。草原に膝をついた花霞は、すすり泣きながら項垂れた。狐も、花霞に合わせるように姿勢を低くして、顔全体を花霞の身体に当てがった。まるで、お前はよく頑張ったと慰めてくれているみたいだった。


 狐は花霞が泣き止むまで、じっと動かずにいた。穏やかな呼吸の音が、膨らんでしぼむ腹の動きが、温かさが、徐々に花霞を落ち着かせた。

「もしかして、まだ死んじゃいけないって、そう言ってるの?」

 

 花霞は項垂れながら呟いた。狐は何も答えなかったが、ふうっと長い息を鼻から流した。

「そっか。じゃあ、生き続ける意味って何?」


 答えが返ってこないのは分かっているけれど、花霞は訊いた。狐の横顔に手を当てて、上から下へと撫でた。柔らかな手つきだった。撫でられたところの毛が沈み、また立ち上がる。赤い瞳が、その光を柔らかくして、じっと花霞を見つめると、花霞は何かを理解したかのように瞼を閉じて、長い息を吐いた。

「確かに、死ぬのに理由が必要なら、生きるのに意味なんてないのかもしれないね」


 花霞は草原の上に横になった。狐の向こうに広がる星空は、さっき橋の上で見たものとほとんど変わっていなかった。些細な違いなんて分からなかった。だから、くすりと笑いが零れた。今日、自分が死のうが死ぬまいがこの星空は何時間か経ったら朝になって青空になる。今だって、どこかの誰かはテレビを見て笑っているかもしれない。今日の仕事を終えてうんざりしながらビールを飲んでいるかもしれない。新たな命の誕生を喜んでいるかもしれない。自分と同じように絶望していたかもしれない。だけど、そのどれもがちっぽけで、良くも悪くも過去になっていって、意味なんてあるかないか分からないものになっていくということ。だったら、生きてしまったのだから、身体がどうしてか生きたがろうとしているのだから、その摂理に従って、のうのうと生き続けるのも悪くはないのかもしれない。そんなことを花霞は考えた。

「ありがとうね。どうして助けてくれたのかは分からないけど」


 花霞はまた、狐の横顔を撫でた。狐は心地よさそうに目を閉じて、撫でられるままを愉しんでいるようだった。

「ねえ、ひとつお願いを聞いてくれない?」


 花霞は狐に微笑みかけた。まだ白目には赤が滲んでいたが、晴れやかな表情になっていた。狐は小さく頷く。

「じゃあさ、ここ、どこだか分からないから、家まで送ってくれない?」


 花霞は狐の背に乗って、夜の空を渡っていた。冷たくて鋭い風が頬を撫でるも、苦になることはひとつもなく、むしろ清々しい心地さえした。狐の背から下を見れば、自分よりもずっと大きな家や建物が、ものすごく小さなものに見えた。その中から自分の帰るべき場所を探すのには苦労がいるかと思ったが、街灯が、アパートの灯りがぽつぽつと残っていて、自宅を探すのにもそれほど困りはしないようだった。

「あ、あれだ。あの、茶色い屋根の家」

 

 花霞が指をさすと、狐は自宅に向かって緩やかに降下した。花霞は自宅の前で狐の背中から降ろされると、狐に向き合って「ありがとう」と頭を下げた。狐は、ひとつ薄ら笑いを浮かべた。橋から落ちているときに聞いた、秋風のような声だった。そして、また鼻先を花霞の顔に近付けて、額の辺りを突くように当てがった。これはきっと、狐なりに背中を押してくれたということなのだろう。花霞はまた一礼をして、飛び去っていく狐に向かって手を振った。


 一人ぼっちになった家の前で、花霞は左手の指を右の手首に添えた。確かに脈は刻んでいる。後ろに振り向き、家の玄関の扉に手をかけるには十分すぎる理由だった。扉を開けると、正面には父が立っていた。

「ああ、花霞」


 父は全身を濡らした娘の姿を見ると、驚いたように目を丸くして、それから花霞に飛びついた。強く抱きしめた。

「よく、帰ってきたな。ありがとう。おかえり」


 花霞は父の言った「ありがとう」の意味を嚙みしめた。きっと、色々知ったのだろう。だって、遺書は見つかるように置いておいたのだから。「うん。ただいま」と父の胴に埋もれながら呟いた。


 明日だって、きっと絶望は続いて、今日死ねなかった後悔も引きずることになるだろう。それでも、生き延びた事実を踏みしめて、息をしていくしかない。今できるのは、きっとそれくらいだ。


 母親が退院をしてから、ひと月ほどが過ぎた。花霞の身の回りも、母も、父だって相変わらずだった。もはや、この家族には希望なんてものはちっとも残ってやいないのかもしれない。ただ、少しずつ変わろうとしていた。父は花霞に学校へ行くことを辞めてもいいと話し、それでも学校に行くことを辞めなかった花霞は両親に「今日も誰とも話さなかったよ」と欠かさずに報告をした。それを聴いて、母は今日を踏み締めた花霞に温かい夕食を与え、頭を撫で、泣き疲れた花霞が眠ったあとにひっそりと薬を飲んだ。そして、そんな母の眠りを父は確かめる日々を続けていた。


 ただ、その変化が良いものなのかどうかは、誰も確かめようがなかった。だから、最も好転を望んでいた父が転機を作った。

「どこか、別の場所で暮らそう。そこまで離れたところじゃない、そうだな、隣の市に移るとか、そのくらいの、無理はしない程度に大きな引っ越し。いつまでも、こんな古いアパートに住んでいる必要もないんだ。だから、どうだ?」


 夜の料理が並んだテーブルの上に浮かんだ父の提案は、花霞と母に好色こそ滲ませなかったが、暗い面持ちにもさせなかった。夕食の後、父がテーブルの上に広げたいくつかの小綺麗なマンションの写真がついた資料は、どれもほのかに明るかった。「ここは、三年前に駅の近くに建ったところなんだ。電車の通る音がしょっちゅうするってだけで、手がつけやすい家賃になってるんだ」「ここなんか、スーパーも近いし、市の境だから今の職場からもそこまで離れてなくて、いいと思うんだ」などと、ひとつひとつに希望を含ませた喋りを流す父に、花霞と母もだんだんと乗せられてきた。母はリビングやベランダの様子をひとつひとつじっくりと眺め、花霞はおそらく自分の部屋になるだろうところにはいくつ本棚が置けるだろうか、ということを気にしていた。たまに、お化けが映り込んでいる写真を花霞が見つけて「ここ、お化けがいるよ」と白い歯を見せながら父に報告すると、「じゃあ、ここは却下かな」と父は口の両端をくっきり上げて冗談っぽく笑い、その隣で母も微笑んでいた。「花霞がいると、物件探しに失敗しないかもね」なんて言っていた。


 引っ越し先は、隣の市の中央から少し北の辺りに決まった。父としてはもう少し職場に近いところが良かったらしいが、その辺りは割り切って考えていたから問題視はしないこととなった。引っ越し先が決まってからはとんとん拍子に話が進み、ひと月と経たない間に、次の家で数多くの段ボール箱が畳まれて、カラーボックスやベッドの組み立てが済んだ。

 

 引っ越しを終えてすぐの晩は、マンションから徒歩五分のところにあるお弁当屋さんで買った弁当を綺麗なリビングで食べ、腹の調子も落ち着いた後に三十分ほど、家族みんなで近所を散歩することにした。


 花霞は目新しい街並みに、少し浮き足立つような心地でいたが、目一杯鼻から空気を吸うと、どこか吹っ切れたような気持ちになって、「今日から、ここで暮らしていくんだね」と両親の顔を交互に見ながら微笑んだ。「うん、そうだな」「そうね」と返す両親も、僅かに晴れやかな面持ちでいた。


 そろそろ戻ろうか、と父が言ってすぐ、母が「あ、あれ見て。神社がある」と指をさした。

「最後に、お詣りでもしていきましょう。

 これからこの辺りに住むことになりました。よろしくお願いしますって」


 母の言葉に父と花霞は賛同した。住宅街の端にある小さな神社だった。だが、手入れは行き届いているようで、年季こそあれど風格もある社だった。三人は灰色の鳥居の前で一礼をして、社の前まで進み、賽銭を投げ入れて作法通りに手を合わせた。すると、何かを呟く小さな声がした。花霞が驚いて顔を上げると、隣の両親はまだ手を合わせていたから、気のせいかと思った。だが、今度ははっきり

「分かりました。見守り致しましょう」

と告げる女性の声が聞こえたので、花霞はもう一度目を閉じ手を合わせ、「よろしくお願いします」と胸の内で唱えた。


 神社を出た帰路の途中、花霞はぽつり「あのね、さっき私、神様の声を聞いたかもしれない」と夜空に浮かべるように言った。

「そう。神様は何て?」

 母が訊いた。父も顔を花霞に向けて、興味ありげに眉を上げていた。けれど、花霞は「んー、よく分かんなかった。けど、綺麗な女の人の声だったよ」とはぐらかした。

「そっか」

 母は笑った。「きっと、いい神様なんだろうね」

 

 引っ越しの後の諸々の手続きを終えると、いよいよ小学校の卒業が見えてくる時期になった。転校してからふた月ほどしか経っていないから、何の思い入れもないのだけれど、「中学に入ったら、もっと遊ぼうね」と言ってくれる人ができただけ、前進したのだろう。母と中学の制服の採寸をしに行ったとき、母は「これからまた少し、背も伸びるでしょうから、少しゆとりを持たせるようにしたほうがいいのかな」と真剣な顔つきをして言っていた。母は母で、前進しているのだろう。父は、花霞が中学の制服を纏って卒業式に参加する姿を見て、保護者席の端の辺りで眼鏡を外し、目頭に手を当てていた。


 そうして、春が訪れた。もう絶望ばかりではない、うららかな春だ。時を経ると、また絶望が訪れることがあるかもしれない。けれど、それを乗り越えられる力をつけていける。そんな強さを家族の誰もが信じられる春だった。時間はまだまだかかるかもしれないが、とりあえず今は、あの住宅街の端の神社に行って、家族みんなで夜桜を見ることにでもしよう。


 

 

 


 

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