第4話 「心乱るること多々あり—挫折と仲間の絆」
午前中の天気予報では晴れだったはずなのに、放課後の校庭には薄い雲がかかり、どこか息苦しさを感じさせる空模様が広がっていた。
シオンは昇降口で靴を履き替えながら、まだ重たい疲れが抜けきらない自分を自覚する。近頃続く過酷な漢字修行の影響なのか、体が鉛のようにだるく感じられるのだ。
「おい、シオン。今日も同好会だろ?」
声をかけてきたのはタイガ。
彼の顔にもくまができているが、その瞳には何かしらの決意が宿っているようにも見える。
運動部で鍛えた体力をもってしても、あの“漢字の魔境”は容易ではないらしい。
「行くさ。……正直、きついけどな」
率直な言葉にタイガは渋い顔をする。
ごまかしがきかないほど疲弊しているのは、お互い様というわけだ。
二人が旧校舎のほうへ歩み出すと、廊下の角からカグヤが姿を現した。
黒髪に一筋の飾り紐をつけ、視線はまっすぐシオンたちへ向いている。
以前のような尖った空気は若干和らいでいるようだが、どこか張りつめた雰囲気は変わらない。
「あなたたち、今日は少し遅かったのね」
チクリとした言い方だが、以前より棘(とげ)は少ない。
シオンは肩をすくめて言い返す。
「遅刻にはなってないだろ。……最近、いろいろと疲れがたまっててさ」
「そんなことで音を上げるなら、漢検1級を目指す資格はないわ」
きっぱりとした言葉にタイガが苦笑する。
「もうちょっと手加減してくれよ。こっちは根性で踏みとどまってんだぞ」
カグヤは目を伏せるようにして唇を結んだが、すぐに無表情を装い、来た道を引き返すように歩き出した。
旧校舎の扉を開けると、部室内にはすでにリリカとスバルが待っていた。
リリカは書棚から何やら分厚い書物を取り出して、テーブルに並べている最中だ。「みんな来たわね。今日は例の‘古典鑑定’に挑もうと思うの」
聞けば、江戸から明治期にかけて編纂されたという稀覯(きこう)本の一部を抜粋し、その筆致や用字を見極めるらしい。
誤字脱字の類いを発見すればポイントが加算されるという、いかにもディープな企画だ。
タイガは「ますます意味がわかんねえ」と頭を抱え、カグヤは「面白そうね」と妙に静かな声で呟く。
シオンもその書物を手に取ってみたが、小さく虫食いのある紙にびっしり書き込まれた文字は、彼の“やる気”を明確に試しているようだった。
「けど……もう相当へばってるのも事実なんだよな。最近、あんま眠れてないし」
シオンは観念したように思いを吐露する。
するとカグヤがちらりと彼を横目に見る。
「ふうん。じゃあ、やめるの?」
「やめるって……そういう意味じゃない。俺はただ……」
後ろで聞いていたタイガが「ちょっと休憩が欲しいってだけだろ。お前もわかるだろ?」とフォローを入れるが、カグヤの表情は固く、リリカも沈んだ様子だ。
すると、いつも無口なスバルが、おずおずと口を開く。
「休む……もちろん大事。でも、皆……1級狙い、強い意志、あるはず」
言葉こそ拙いが、その瞳には熱がある。
スバルの何気ない言葉で、部室に漂っていた重苦しい空気がわずかに和らいだようにも見えた。
しかし、新たな問題は別のところに起きていた。
鑑定作業を進めるうちに、リリカが急に表情を曇らせたのだ。
大切な古書をめくっている最中、紙の奥に微かな瑕疵(かし)があるのを見つけたらしく、しかもそれが致命的な破損に繋がる可能性があるのだという。
「私、ずっと祖父の蔵でこの本を保管してきたの。もし万が一、虫喰いが広がったら……取り返しがつかなくなるかもしれないわ」
まるで大切な宝物が危機にさらされているかのような青ざめた声に、タイガはぎこちなく肩を叩く。
「気にすんなって。直し方とか、調べりゃわかるんじゃねえの?」
だが、リリカは首を振る。
「曖昧(あいまい)な処置をして、却って紙を痛めるかも……。そう思うと怖いの」
彼女が沈み込んだ様子を見て、シオンはたまらず口を挟む。
「簡単には直せなくても、俺たちで手伝えることがあるんじゃないか? それに、この本って、あんたがずっと守り続けてきたんだろ。無駄にはならないさ」
必死に励ますつもりで発した言葉だったが、リリカの悲痛な面差しは晴れない。
彼女はそっと本を閉じ、俯いたまま小さく息を吐いた。
カグヤも隅で黙り込んでいるが、視線はリリカの古書へ向けられている。
横ではスバルが所在なげに立ち尽くし、タイガはどう声をかけていいのかわからない様子だ。
すると、唐突にカグヤが重々しい口調で口を開く。
「……私だって知っているわ。大切にしてきた書物を少しでも傷つけられると、心まで抉(えぐ)られるような思いになるの。だからこそ、その痛みを軽減する方法を、一緒に考えていきましょう?」
意外にも思いやりが感じられる物言いに、リリカは目を潤ませながら弱々しく微笑む。
「ありがとう。……あなたたちに手伝わせるのは気が引けるけれど、正直、心強い」その場の空気は少しだけ柔らかくなったものの、疲れは確実にメンバー全員の心を乱しているようだ。
かといって修行をストップするわけにもいかない。1級へのプレッシャーは日に日に増し、彼らの体力と気力を剥ぎ取っていく。
やがて、鑑定作業を再開したものの、カグヤが急に激しい口調でシオンを責め始めた。
「なんでここを見落としてるの? こんなに明らかに変体仮名が紛れ込んでいるのに」
「別にわざと見落としたわけじゃない。集中が切れたんだよ」
「それが甘いのよ。私たち、合格するために集まったんでしょう?」
たちまち膨れ上がる不穏なムード。
リリカが間に入りたいそぶりを見せるが、カグヤの剣幕は止まらない。
「あなたは少しでも真剣にやってるの? それとも、ただ‘カッコいい’とか言いたいだけ?」
その言い方にシオンは目を見開く。
「言いすぎだろ。俺は本気でやってる。それはあんたが一番よくわかってるはずだろ!」
「わかってる? そんなの知らないわ。勝手に自分の浪漫とやらを押しつけてるだけじゃないの?」
言い争いを遮るように、タイガが「おい、いい加減にしろ!」と声を上げる。
めったに感情を表に出さない彼の怒声に、部室内が静まりかえった。
「みんなぐちゃぐちゃになってるだろ。疲れすぎてピリピリしちまってる。そんなの分かってて言い合いを続けるのか? 意味ないじゃねえか」
カグヤは乱暴に視線を逸らし、シオンは机に拳を押し当てたまま黙り込む。
すると、リリカがそろそろと立ち上がり、奥にあったポットで人数分のお茶を淹れ始めた。
「……ひとまず休憩にしましょう。落ち着いてから、話をしない?」
彼女の提案に全員が渋々うなずき、それぞれカップを手に取って腰を落ち着ける。
苦味の強い煎茶が空気を静かにしてくれるのか、しばし沈黙が続いた。
そこへ、誰ともなくスバルがぽつりとつぶやく。
「僕……なぜ漢字好きか、はっきり言ったこと、ない」
視線が彼に集中する。
スバルは拙い言葉をゆっくり継ぎ足しながら、紙に何かを書き加えている。
「母国では……この文字、憧れ、崇拝(すうはい)に近い。漢字は深く、美しい。僕は書いていると、心が燃える」
日本語が危ういせいで説得力が薄れそうだが、その真摯な声色は誰の胸にも真っ直ぐ届いた。
リリカが小さくうなずく。
「そうね。私も、漢字が古来から受け継いできた歴史や文化を思うと、胸が震えるの。祖父から譲り受けた古書たちは、その結晶みたいな存在。だから、壊したくない、守りたい。……でも、一人じゃ無理なのよ」
続いてカグヤは視線を下に落としながら、「私……漢字っていう構造体に魅了されたの。とくに、歴史が紡いだ複雑な字形を見ると、自分がまだ知らない世界が無数に広がってるようで。だからこそ、妥協するのが嫌なの。浅はかな情熱で終わらせたくない、そう思ってる……」
声は控えめだが、その言葉には切実な響きがこもっている。
隣のシオンは、これまで感じたことのない不思議な熱量を覚えながら、ゆっくり口を開いた。
「俺は単純に、漢字が格好いいから始めた。でもやっていくうちに、その奥にある壮大な歴史や、複雑な成り立ちにときめいてる自分がいる。合格すれば……そんな未知が少しでも掴めるんじゃないかと思ってるんだ」
言葉を交わすうちに、部室の空気はさっきまでの殺気立ったものから、一転して穏やかさを帯び始めた。
タイガがタオルで汗を拭きながら目を閉じ、ひと息つく。
「まあ、俺は正直、そこまで漢字にロマン感じてねえ。でもな、こんなに真っすぐ突き進む連中を放っておくのももったいない気がしてきた。だからもうちょっと頑張ってみるわ」
そのひょうひょうとした言い方にシオンが苦笑いすると、リリカがふっと微笑んだ。「ありがとう、みんな。まだ道半ばどころか入り口かもしれないけど……こうして話せただけでも、私、少しだけ前を向ける気がしてきたわ」
カグヤは難しそうな顔でカップを両手に包み込みながら、ゆっくりと上目遣いでシオンを見る。
「さっきは悪かったわ。無神経なことを言って……。私も焦ってたのかも。あなたが妥協してるわけじゃないのに、私自身がそれを避けてたのかもしれない」
シオンは一瞬びっくりしたような顔をして、それから照れくさそうに首をかしげる。「いや、俺も言い返し方が悪かった。……お互い様だろ?」
二人のわだかまりが、少しだけ雪解けしたような空気に、タイガが「やれやれ」と笑い、スバルはほっとしたように頷いている。
リリカは胸にしまいこんでいた不安を和らげるように、古書をそっと撫でていた。
いつもより短めの時間で部活を切り上げた彼らは、廊下の窓を覗いて驚く。外は、さっきまでの曇天が嘘のように晴れて、夕陽が朱色に校舎を染めていた。
「こんな景色も、久しぶりな気がするな」
シオンが呟くと、カグヤも同じ窓の向こうを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「そうね。ずっと曇り空ばかり見てた気がするけど、意外と太陽は近くにあるのかもしれない」
彼女の目には、疲れの合間から希望の光が差し込んでいるようにも見える。
そうは言っても、1級取得という目標は険しく、これからも苛烈な試練が待ち受けているのは変わらない。
古書の保護問題も解決したわけではなく、メンバー個々の不安は尽きないだろう。
だが、互いが抱える“漢字への思い”を初めて表に出せたことは、彼らにとって大きな一歩になるはずだ。
翌日の放課後、リリカが大切に保管していた古書の虫喰いを防ぐべく、メンバー全員で修復法を調べていた最中、気づけば窓の外が深い藍色に染まっていた。
いつもならとっくに部活を切り上げて帰る時間だが、今日ばかりは妙な充実感に背中を押され、そのまま居残ってしまったらしい。
「なんか、月が綺麗だな……」
シオンが何気なくつぶやき、部室の窓を開け放つ。
外は夜の静けさが増しているのに、空には不思議なほど明るい月が浮かんでいた。
時折、雲がかすめて形を微かに歪めるが、むしろその揺らぎが神秘的に見える。
カグヤは遠慮なく窓辺に近づき、上着の袖をまくって夜風を受けながら、月をじっと見上げる。
「今夜の月、少し青みがかってる気がするわ。こういうのを、古典では《蟾宮(せんきゅう)》と呼ぶこともあるのよね。昔の人は月を、ときに‘宮殿’になぞらえて、その光を崇めていたと聞いたわ」
彼女の声は先ほどまでの険が削がれ、どこか穏やかな響きを持っている。
窓の手前でスバルが首を傾げ、「サンキュウ……?」と怪訝な顔をするが、すぐに「蟾宮、月……」と呟いて納得したようだ。
リリカはそのやり取りを見て、くすっと笑みを浮かべる。
「そうか。古来の伝承では、月の中には蛙(かわず)の姿をした仙人が住む、なんて言い伝えもあるからね。だから‘蟾’の文字が月を指すこともあるってわけ」
彼女の説明にタイガが「蛙……」と眉をひそめるが、どこか面白そうでもある。
何かが腑に落ちたように「試験を乗り越えることを‘蟾宮に上(のぼ)る’って表現することもあるらしいぞ」と思い出したように口走った。
シオンは窓枠に肩を預け、夜空に浮かぶ月を見つめたまま大きく息を吐く。
「なんか、こうして見ると、不思議と余裕が出てくるな。俺たち、あれこれ大変だったけど……まだ続きはあるんだもんな。試験だって、修行だって、終わったわけじゃない」
前までの厳しい空気が、この月夜の下では嘘みたいに柔らかい。
焦りや苛立ちが消え去ったわけではないが、それでも今だけは穏やかでいたい。
それぞれの胸にまだ小さなトゲが刺さっているとしても、この夜風がほんの少し癒やしてくれるように感じられる。
「蟾宮……か。それぞれの想いを抱えたまま、いつかそこへ辿(たど)り着けるのかな」
カグヤがぽつりと漏らす言葉は、夜気に溶けるように静かだ。
リリカは小さく頷いてから、丸テーブルの上に開きっぱなしになっていた古書をそっと閉じる。
先ほどまで悩んでいた虫喰いの件も、大切なこの時間を思えば、乗り越える方法が見つかるかもしれないという気がしてくる。
タイガは少し照れくさそうに鼻をこすりながら、「月を見てちょっとやる気が出るって、お前ららしいよな」と低く笑う。
スバルは「蟾宮……僕も、行きたい」とつぶやいて、また何やら紙に文字を書き込み始める。
そこには一見して読めないような線が複雑に絡んだ文字が描かれ、彼の頭の中で新たな思考が芽吹いているのだろう。
部室の窓からそよぐ夜風に、全員の髪がわずかに揺れる。
月の光は少し濁った雲を透かしているが、それすらも幻想的に映る。
誰ひとりとして、すぐに帰ろうとは言い出さない。
ただ、しばし蟾宮の光を見つめ、いつかこの漢字修行の頂点まで上り詰める光景を思い描いていた。
蟾光(せんこう)宿る幽寂が、彼らの胸臆(きょうおく)に一縷(いちる)の新たな覚悟を映し出すかのように思われた。
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