第3話 「修行初日から阿鼻叫喚! 謎の特訓オンパレード」
朝のうちに降った雨の名残がグラウンドの隅に小さな水たまりをいくつも作っていた。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、シオンは体育館裏の空きスペースへ足早に向かう。
今日は漢字オタク同好会主催、“初回の修行”が挙行される日だ。
あたりを見回すと、白いシャツの袖をまくり上げたタイガがすでに待機していた。
彼は「お前も物好きだな」と言いたげな視線を向けるが、その横顔にはどこか憂いも混ざっている。
きっと、これから行われる修行が尋常でないことを、薄々勘づいているのだろう。
「シオン、あんた遅いわ」
ぴしゃりとした声が飛び、振り返ると、カグヤが書道用の大きな袋を提げて立っていた。
目には鋭さすら宿り、その意気込みがまざまざと伝わる。
「せっかちだな。まだ集合時刻には余裕が……」
「言い訳しないで。さっさと準備にかかりましょう」
ちょっとした口火に火薬をぶちまけるかのような、刺々しいやりとりにタイガが「落ち着けって」と割って入る。
だがカグヤは手をひらりと上げて制する。
「緩みは敗北の始まりよ。漢字検定1級はそんな生易しいものじゃない。それがわからないなら帰りなさい」
声の温度が低く、シオンも一瞬、言い返す言葉を失ってしまう。
だがすぐに「俺は帰らない!」と頬を張り上げた。
2人の火花が遠くからでも見えそうなほど、周囲がピリつく。
そこへリリカが涼やかな笑みをたたえて登場し、空気を和ませようと声をかける。「喧嘩は後にして、まずは《百枚古文書模写》から取りかかりましょう。今日のノルマは思ったより多いわよ。霧吹きも潤沢(じゅんたく)に用意したから、紙がすぐに乾くことはないはず」
彼女が示したテーブルには、和紙やら筆やら、そしてまがまがしいほど古めかしい文献のコピーが山と積まれている。
しかも必要分よりはるかに多そうだ。
タイガがそれを見て唖然(あぜん)としている隣で、カグヤはさらりとペンライト付きの拡大鏡を鞄から取り出していた。
「よし、百枚やるぞ。どんな艱難(かんなん)だろうが、なんとか捻出(ねんしゅつ)してこなしてみせる」
シオンが気合いを入れると、カグヤが冷たい微笑みを浮かべる。
「あなたがすぐ音を上げないことを祈るわ。筆跡が微妙に違う旧字体系もあるから、些末(さまつ)な箇所を見落とさないで」
「言われなくてもな。……それより、お前はちょっと厳しすぎるんじゃないか?」「漢字に対して甘い人間は、最後に破綻(はたん)をきたすのよ」
火薬庫に火種を投げ込むような物言いに、タイガは目を泳がせる。
「お、お前ら気張りすぎだろ」と呟くが、両者の耳に入ったかどうか。
しばらくして、皆で腰を下ろし、百枚模写に取り組み始める。
古文書の文字は実に胡乱(うろん)で、墨が掠れている箇所も多い。
なまじ漢字とわかっていても、崩し字に近い表現が多く、カグヤですら首をひねるところがある。
シオンは気合いとは裏腹に、さっそく何度も筆を持ち替えながら二度見、三度見を繰り返し、じわじわと疲労が溜まっていく。
「すぐ飽きた顔してるわね」とカグヤが横目で指摘する。
「飽きてない。ちょっと嚼(か)み砕く時間が要るだけだ」
「いいから、黙って手を動かしなさい。集中すれば筆先が勝手に走るはず」
苛立ちと闘志が入り混じる声に、シオンも思わず黙り込んで紙へ向き合う。
彼女の言葉の重みは、単なる鞭撻(べんたつ)ではないようにも聞こえた。
やがて夕日が傾き始めたころ、百枚のうち六十枚ほどが終わった。
頭の中はすでに囂囂(ごうごう)たる混沌が渦巻いている。
リリカが保温ポットから緑茶を注いでくれたので、シオンは一気に喉へ流し込む。
視界の隅ではタイガが完全にバテており、「お前ら……何のためにこんな無茶をしてるんだ?」と弱音を漏らしている。
「1級合格のためなんだから、贅言(ぜいげん)は控えましょう」
リリカが淡々と告げる。
「まだまだこれからよ。次は‘暗闇書道’の準備を始めます」
日が落ちると、校舎の空き教室には暗黒とまではいかないが、蛍光灯の明かりを消しただけで、奥のほうはじわりと見えなくなる。
スバルは懐中電灯を携えて、そっと床を片づける。
今回の特訓は、“ほぼ闇”という環境の中で巨大な筆を使い、異体字を中心とした難解な熟語を書き上げるものらしい。緊張感がまるで増幅されるかのようだ。
「めちゃくちゃだな……本当にやるのか?」
タイガは半笑いだが、リリカはきっぱりと首を縦に振る。
「暗闇だからこそ集中力が高まり、筆の動きを恍惚(こうこつ)とした感覚で捉えられるらしいの。祖父いわく‘感覚が鋒鋩(ほうぼう)を増す’のだとか」
「そりゃ酔狂(すいきょう)にも程があるわ……」
シオンが呟いたそのとき、教室の電気がバチッと落とされ、ほとんど何も見えなくなる。
わずかに外の街灯から差す明かりだけを頼りに、リリカが「始めるわよ」と声を響かせた。
暗闇のなかで大筆を手にするだけでも足元が覚束ないのに、書き下ろすのは《鷹揚(おうよう)》《鸞翔(らんしょう)》《磊落(らいらく)》など複雑な熟語だ。
「いつも以上に紙の位置を意識して、匂いとか微かな紙の感触を頼りにしなさい」とカグヤが促す。
「言われなくても……うわっ、やばい!」
シオンは一筆目から紙を踏みそうになって慌てる。
カグヤはその動揺を鼻で笑うようにしながら、自分はスラスラと書を進めているらしい。
筆先が紙と擦れ合う心地よい音が聞こえてくると、その余裕が一層シオンの焦りをかきたてる。
気合いを入れて書き始めたものの、ひとたび線をはみ出してしまうと、もはやどこが文字の中心かさっぱりわからない。
シオンは頭の中で文字を彌縫(びほう)しようとイメージするが、暗がりがその思考さえ攪乱していく。
隣でタイガがうめき声をあげ、「もう無理、俺は限界だ。さっきの百枚模写で腕がパンパンなんだよ」と倒れかけているのがなんとも悲壮だ。
「あんたたち、こんな程度で怯むの?」
カグヤがきつい口調で言い放つ。
「怯んでない。だけど、お前こそ、やりすぎなんだよ」
シオンは闇のなかで声を荒げる。
「俺だって精一杯やってるのに、いちいち指図してくるのはどういうつもりだ?」「指図じゃないわ。事実を言っているだけ」
「ならもう少し言い方ってもんがあるだろ? お前はいつも上から目線で……」
「あなたが下手だから、そう聞こえるだけじゃないの?」
その一言にシオンの苛立ちが爆発寸前になる。
暗がりの中で睨み合う2人の間に、思わずタイガが入ろうとするが、足を滑らせてずりこけてしまい、床に筆をぶちまける。
リリカが「まあ、まあ」となだめようとする声を上げるが、それもどこか遠く感じられる。
重たい空気が教室に充満して、誰の筆も動かなくなった瞬間、ふいに小さな光が灯った。スバルが手にしていた懐中電灯だ。
照らされた床には、流れ出た墨と倒れた筆。
タイガが呆れ顔で腰を押さえ、カグヤとシオンの視線はまだ交錯している。
するとスバルが、たどたどしい日本語でぽつりと言った。
「練習……もっと要る。まだ終わり……じゃない」
その素直すぎる一言に、シオンもカグヤも一瞬面食らったように黙り込む。
彼の発言は叱責でも侮蔑でもなく、ただ単純な事実を言っているにすぎない。
実際、まだ目標の文字数はこなせていないのだ。
気まずさを拭い去るように、リリカが大きく息を吐く。
「そうね。ここで終わるのは惜しい。せっかく暗闇での集中を体験しているんだから、一緒にやり切りましょう」
彼女の声には、さっきまで感じられなかった暖かい響きが混ざっていた。
カグヤもすっと視線を外して、自分の筆を持ち直す。
そしてシオンも腹の奥に渦巻く感情をなんとか抑え、「わかったよ、やる」と呟く。
その後、暗闇の中での筆運びは以前よりも静かに進んだ。
激しい言い争いこそなかったものの、カグヤとシオンの間には何かしら未解決の火種がくすぶっているのかもしれない。
タイガは呆れながらも「仲間割れは勘弁してくれよ……」とため息をついているが、彼自身、この修行の厳しさに嫌気が差していないわけではない。
やがて全員の腕が鉛のように重くなり、筆を動かす力も尽きかける頃、リリカがやっと明かりをつけてくれた。
蛍光灯の下に現れた紙には無残な墨の跡が散乱していて、果たして何が書かれているのか判別しがたいものも多い。
だが、暗闇の中で必死に書き上げたその跡には、妙な達成感が漂っていた。
「破綻するかとヒヤヒヤしたけど、なんとか終えたわね」
リリカがそう言って丸い卓上ライトを持ち上げる。
「今日の成果はこの程度だけど、回数を重ねれば感覚は鋭敏になるはず。試験当日、役に立つはずよ」
教室の隅に腰を下ろしたシオンは、腕の痛みを揉みつつ、書き上げた紙を見やる。
失敗だらけの文字たちが不思議な迫力を醸し出していて、何かを訴えているようにも見える。
カグヤは自分の紙を無表情でじっと見つめていたが、そっと手で触れて、ふぅと微かに息を漏らした。
「あなたの筆、さっきよりは力強くなってるわね」
不意にそんな言葉をかけられ、シオンはドキリとする。
先ほどの険悪さは消えてはいないが、その声には少しの認める気配が宿っていた。「お前はずっと余裕そうだったけどな」
「そうかしら。私も、ぎりぎりまで踏みとどまっていたのよ」
かすかなやりとりだったが、タイガが「お、なんだか丸くなった」と囁いてニヤついているのが見えた。
結局、この日の修行は夜も遅くまで続き、全員くたくたになるまで紙と墨に向き合った。
《百枚古文書模写》から始まり、《暗闇書道》で仕上げるという流れは想像以上にきつく、体力も精神力も削られた。
けれど、それ以上に不羈(ふき)の情熱が駆け巡ったことは事実だ。
帰り際、リリカが口を開く。
「今日は初日だったし、かなり荒っぽい内容になっちゃったけれど、これからもっと斬新(ざんしん)なプログラムを取り入れる予定よ。みんな、準備はいいかしら?」
その言葉に、タイガは「もう勘弁してくれ」と嘆くし、カグヤは「望むところ」と小さく頷く。
スバルは不思議な笑みを浮かべたまま、また奇妙な文字らしきものを紙に書きつけている。
シオンはその様子を見てどこか胸が熱くなり、「もちろんだ」と力強く答えた。
まだしこりの残るカグヤとの関係、そして地獄の修行に巻き込まれたタイガの行く末も気になる。
過酷な道を進む彼らに、どれほどの試練が押し寄せるのか。
答えはわからないまま、星屑が稀薄(きはく)に瞬く校庭の片隅で、彼らはまだ燻(くすぶ)る熱を抱えたまま語らずに立ち去った。
墨に塗れた紙が示すのは破綻か、それとも新たな扉への道しるべか。
少なくとも、放課後の闇を穿(うが)つその激情だけは、誰にも抑え込めそうにない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます