第2話 「変人集合! 漢字オタク同好会へようこそ」

翌日の放課後、シオンはカグヤと共に、校舎の北側に位置する旧校舎へ足を運んだ。かつては使われていたらしいが、今は人気がなく薄暗い空気が漂っている。

その突き当たりに、小さな教室がぽつんと残されていた。

扉には「漢字オタク同好会」と力強い筆文字で書かれた手づくりの看板が貼りつけてあり、角が黄ばんでいるあたりに古い歴史が感じられる。


「ここが噂の‘変わった人たち’のたまり場ってわけか?」シオンは胸の内に期待と好奇心を抱えつつ、低い声で漏らす。

カグヤは「ああ、面白い連中ばかりよ」と、どこか得意げに微笑みながらドアを開けた。


中に踏み込むと、まず目を奪われたのが壁一面の漢字ポスターだ。

「瀟洒(しょうしゃ)なる筆致を究めよ」「蹉跌(さてつ)を恐れるな」など、ただ文字を羅列するだけでなく、それぞれに筆遣いの解説や由来のメモが添えられている。

いかにも“漢字オタク”の巣窟(そうくつ)という印象で、シオンの胸が高鳴る。


その壁際には、白いブラウスとチェックのスカート姿の女子生徒がいた。

姿勢のよさは上品とも言えるほどで、手には古い辞書を抱えている。彼女はシオンたちの姿を見ると、すっと振り向いて涼しげに言った。

「初めまして。私は下鴨リリカ。この同好会の会長を務めているの。あなたが神木シオンくんね?」

見た目こそ“優雅”の一言だが、その背後からは不思議な熱量がにじみ出ている。

シオンが「そうだけど……」と答えると、リリカは微笑みながら、手元にある分厚い古書をテーブルへそっと置いた。


「漢字検定1級を目指すって聞いたわ。あなた……かなりの変人だって噂よ?」

「変人て……まあ否定はしないけどさ」

シオンは苦笑しつつも、先ほど置かれた古書に強く心を惹かれていた。

表紙に箔押しされた「欒(らん)」という字からして、よほどの骨董品らしい。


そこでリリカが「それじゃ、さっそくメンバーを紹介するわ」と言い、教室の隅を手で示す。

そこには長身の青年が無言で立っていた。髪は淡い茶色で、瞳の色も日本人離れしている。

彼はそっと細長い紙を広げてみせた。そこにびっしりと並んだ文字は、どれも印章に使われる篆刻(てんこく)のような独特の書体だった。

「摩天スバル。留学生らしいけど、経歴はよくわかっていないの。篆書(てんしょ)や刻字の研究を熱心にやっているわ」

「篆刻って……あの印章なんかに使う書体を刻むアレだよな?」

シオンが思わず顔を近づけると、スバルは片言で「漢字……深い。僕、もっと極める。1級……当然」と言い切る。

その語調に冗談の気配はなかった。

刀で刻む作業は膨大な集中力と古い文字の知識が必要だからこそ、彼にとって漢検1級は“通過点”なのかもしれないと感じさせる。


「私も1級を狙っているの。古書コレクションが趣味でね、祖父が持っていた江戸期の文献や明治の刊本なんかを研究してるの」

リリカはそう言いながら、机の下からさらに分厚い大判書物を取り出した。

〈蚩尤(しゆう)〉や〈螻蛄(けら)〉といった、一見では読みすらままならない題名のものがゴロゴロ出てくる。

カグヤがそれらを興味津々で覗き込む姿は、いつものクールさとは違う熱っぽささえ感じさせた。


「ところで今日は、あなたたちの正式入会を歓迎しようと思って、お茶と茶菓を用意したわ。座ってちょうだい」

リリカが湯呑を差し出してくるので、シオンとカグヤは向かい合うように席につき、スバルも無言のまま隣に座った。お茶を一口飲んだところで、リリカが突然、A4用紙の束を取り出す。


「これは同好会恒例の‘地獄の漢字修行スケジュール’。読んでみて?」

シオンが目を通すと、《滂沱(ぼうだ)の百枚模写》《暗黒篆刻夜会》《漢詩朗誦マラソン》……と、常識では考えられないメニューがずらりと並んでいる。

以前、カグヤが「暗闇書道」なんて口にしていたが、こちらは「暗黒篆刻夜会」ときた。

さらに篆刻を暗闇でするという、どう見ても危険な特訓らしい。


「……こんなの、本当に意味あるのか?」

シオンが半ば呆れながら問うと、リリカは「あるわよ」とはっきり言う。

「暗黒篆刻夜会では、視覚が制限されるぶん、文字を‘立体’として捉える力が養われるわ。篆刻って、ただ刀を入れるだけじゃないの。彫る文字の形や筆順を深く理解しないと、ちょっとしたズレですぐ別の字になってしまうから」


説明を聞くうちに、シオンは奇妙な納得を覚える。

現にスバルは篆書を驚くほど精巧に使いこなしているわけで、“非常識な修行”もあながち冗談ではないのだろう。


「ほかには、《漢詩朗誦マラソン》っていうのもあるわ。何十首もの漢詩を暗記したうえで、グラウンドを一周しながら大声で詠むの。身体を動かして息が乱れても、正確に朗誦できるように練習するのが狙いよ」

「どうしてそこまで漢詩にこだわるんだ?」

シオンが思わず突っ込むと、リリカは微笑んで答える。

「漢字を知るには、やっぱり古来の詩文が手っ取り早いわ。読みのバリエーションや特殊な熟字訓が詰まってるから。それを覚えるには、脳も身体も使ったほうがいいでしょ?」


カグヤはポスターを眺めつつ、「私も気になるわ。連続写経や古典鑑定もあるみたいだし、どれも奥が深そう」と呟く。

彼女が持つノートにも、既に膨大なメモや引用が走り書きされている。それを横目に見たシオンは、妙な熱さを感じた。


「で、あなたたちは実際どうなの? 本当に1級なんて取れると思ってる?」

リリカが探るような声で尋ねてきた。

シオンはごくんと喉を鳴らしつつ、「1級はやっぱり甘くないよな」と吐露する。

難読漢字はもちろん、四字熟語、熟字訓、故事成語――普通の勉強じゃ間に合わないほどの知識量を要求される試験だ。

「でも、その‘理不尽’さが燃えるんだよ。なんか、文字の深淵って感じがしてさ」

シオンが本音を言うと、リリカは苦笑しながらも同意を示す。

「私も同じよ。未知の文字に出会うたびに、自分がどれほど浅いか思い知らされるけど、逆に言えば“まだ伸びしろがある”って思えてわくわくするわ」


スバルも小さく頷き、「漢字……無限」とつぶやいた。

日本語としてぎこちないが、その一言だけで強烈な情熱が伝わってくる。

カグヤは黒髪をかき上げながら、「私の場合は、文字が作り出す歴史の息遣いを味わうのが好き。漢字が変化してきた過程を知ると、人の営みが垣間見える」と小声で添えた。


そんな話をしていると、リリカが「ちなみに」と切り出す。

「この同好会、‘漢字オタク’なんて呼ばれてはいるけれど……実は以前、他校との交流とかもしていたのよ。そこには『対抗戦』みたいな要素もあって、お互いにどれだけ難読漢字を使いこなせるかを競ったり、タイムアタックで筆記したり」

シオンは思わず「へえ」と目を見開く。まるで“漢字版スポーツ大会”のようだ。

やたらと燃える展開があるなら、その“対抗戦”もぜひ参加してみたいと思う。


「つまり、私たちはただ奇妙な修行を楽しんでいるだけじゃない。いつか来る大舞台や1級試験に備えて、効率的……とまでは言わないけど、独自のやり方で挑んでるの」リリカがそう言うと、スバルが紙にさらさらと何か書き加える。

それは篆刻体で書かれた「挑戦(ちょうせん)」という字のように見え、独特の曲線が美しかった。


「……なるほど。すげえわ。俺、こんなディープな世界があるなんて想像もしてなかった」

シオンは湯呑を持ち直し、心底感心したように呟く。

お祭り騒ぎのように見える特訓メニューも、それぞれに“理に適った”理由がある。

漢詩朗誦も篆刻も、表面的には奇抜だが、そこには漢字の持つ多彩な側面を活かすための工夫が秘められているらしい。


「そういうわけで、あなたたちを正式に歓迎するわ。地獄の漢字修行を共に楽しみましょう」

リリカがそう言って軽く会釈すると、カグヤは満足げな顔で「あたたかい歓迎とは言い難いけど、嫌いじゃない」と返す。

スバルは無言のまま笑みを浮かべてうなずいている。

シオンもおかしな胸の高鳴りを感じつつ、「もちろんだ。俺もこれを機に、さらに深く漢字にのめり込むつもりだからな」と力を込めて言った。


するとリリカがスケジュール表の下のほうをトントンと指先で叩き、ふいに声のトーンを落とす。

「ただし、1級は本当に厳しいわよ。レア漢字や当て字だけじゃなく、四字熟語、熟字訓、故事成語まですべて網羅しなきゃいけないから。下手をすると、単なる辞書丸暗記じゃ太刀打ちできない領域に踏み込む。覚悟はいいかしら?」

その問いかけに、シオンはじっと表を見つめた。

そこには《百枚模写》や《暗黒篆刻夜会》だけでなく、《連続写経+古典鑑定》や《変体仮名大辞典読破》なんて代物まで載っている。

確かに常識で考えれば“狂気”の所業。

しかし、その先に漢字の果てしない深淵が広がっていると思うと、むしろ燃える気持ちが強まった。

「……やってやろうじゃん。俺はもう、どんな荒波だろうが乗りこなす覚悟だ」


「では早速、来週から始動しましょう。まずは《滂沱の百枚模写》。みんなで在りし日の文献を大量に書き写すわ。霧吹きで薄く濡らした和紙に筆を入れるから、普通よりずっと難しい。集中しないと墨が滲(にじ)んで読めなくなるからね」

リリカの説明を聞きながら、シオンは無意識に手を握りしめていた。

カグヤが横で「ふふ」と笑う。その目にも同じ熱が宿っているのを、シオンは察した。

スバルは相変わらず多弁ではないが、その目が熱を帯びているのは誰の目にも明らかだ。

これだけ変わり者が揃っていれば、修行の先でどんな“大舞台”が待っていようと不思議じゃないだろう。

思わず胸が高鳴ってくる。


窓の外は夕陽が赤く染まり、古びた旧校舎の木製扉や廊下を黄金色に照らしている。この教室だけが、周囲とは少し異質な雰囲気をまとっているように感じられた。

リリカが古書のページを軽くめくって、「改めて、ここへようこそ。地獄かもしれないけど、漢字好きには天国よ?」と柔らかく笑う。

その瞬間、スバルが筆で何かを紙に書き始め、カグヤはノートを開いてメモを取る。


シオンはそんな光景を眺めながら、「ここでなら、俺の知らない漢字の魅力が見つかるかもしれない」と思わず口元を緩めた。

勢い任せのギャグのように見えていた特訓メニューも、こうして話を聞けば、漢字の奥深さを探求するための“本質”が詰まっているようだ。


――こうして“漢字オタク同好会”へ足を踏み入れたシオンにとって、これから繰り広げられる修行や検定への道のりは、単なる暗記や体力勝負をはるかに超えた、“漢字そのもののロマン”を体感する場になる。

そして、彼やカグヤ、リリカ、スバルたちの内面にも、文字に触れるごとに小さな変化が生まれつつある――これは、これから繰り広げられる波瀾の大計(たいけい)において、単なる前宴(ぜんえん)にすぎなかった。

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