漢字狂乱ロマンチカ ― 漢検1級に向けた青春
三坂鳴
第1話 「漢字検定1級は男のロマン!」
昇降口を抜けた先の廊下を、神木シオンは胸を張って歩いていた。
背負ったバッグの口からは、使い古されて角が丸まった分厚い漢字辞典がのぞいている。
クラスメイトたちはその鞄の中身に気づいて苦笑いを浮かべるが、シオンの表情からは満足感すら感じられた。
まるで、周囲の視線こそが彼を前へ押す原動力であるかのようだ。
「お前、また漢字辞典持ち歩いてんのか。……そんなもん日常で使わねえだろ」
後ろから声をかけたのは、幼なじみの虎尾タイガ。運動部仕込みのたくましい体格で、いつもシオンを“現実”に引き戻すのが役目だ。
「漢字検定1級を目指すなら、これくらい当然だろう?」
シオンが振り向けば、その顔には妙な自信が満ちている。背中から引っ張り出した辞典をひらひらさせると、なんとも得意げだった。
「ここには《嚠喨(りゅうりょう)》とか《靉靆(あいたい)》みたいに、声や雲を美しく表現する単語が載ってるんだ。そういう言葉に浸ってるとさ、ロマンが止まらないんだよ」
「いや、普通の会話でそんな漢字は使わねえし……第一、ロマンってのがよくわかんねえよ」
タイガは呆れながらも、どこか諦め半分で苦笑している。だが、シオンはその言葉を気にも留めない。
まるで「そういう非常識こそが刺激的だろ?」と言わんばかりの様子だ。
朝のホームルームが始まる。担任の連絡事項には「進学説明会」のお知らせが書かれているが、シオンの目は黒板の端に小さく書かれた「漢検申し込み締め切り」の文字に釘付けだ。
「……今年こそ、受かる」
シオンが小さくつぶやいたとき、教室の後方でコツンと音がした。誰かが席を立ったようだ。
振り返ると、黒髪のロングヘアを揺らした少女、烏丸カグヤがまっすぐこちらを見つめている。
クラスメイトからは「ミステリアス」と評される彼女だが、その瞳に宿る光は尋常ではなかった。
休み時間になると、カグヤはシオンの机へ近づいてきた。
「漢字検定1級……あなたも受けるの?」
落ち着いた口調の裏に何か奇妙な熱が感じられる。
タイガが「怖っ」と言わんばかりに身を引く横で、シオンは腰を下ろしたまま彼女を見上げて答えた。
「もちろん。1級を取るのが俺のロマンだからな」
それだけの言葉なのに、カグヤの目はさらに輝きを増す。
「いいわね。私も、江戸期の《魑魅魍魎(ちみもうりょう)》写本を見て、漢字が紡ぐ世界の深さに惹かれてるの。……壮大な文字って、ただ眺めてるだけでも宇宙を感じるわよ」
「へえ、俺はもっと単純なんだけどな。漢字がカッコいいからって理由で夢中になってるけど、そんなお前なら気が合いそうだ。……ところでさ、どんな漢字が好きなんだ?」
シオンが興味津々で問いかけると、カグヤは手にしていたノートをわずかに開き、その一部を見せてくれた。
そこには旧字から変体仮名までがびっしりと並び、細かな注釈までも書き添えられている。
「毎晩、《厲(れい)》な心持ちで筆を取ってるわ。あなたみたいに《齷齪(あくせく)》動き回ってはないけど、地味に研究するのが好きなの」
「なるほどな。俺は暗記カードでガンガン覚える派。昨夜も《鸞(らん)》って字を夢の中でまで書いてたし」
「……あなた、正真正銘の漢字バカね」
彼女の口から“漢字バカ”と呼ばれて、タイガが「それは言いすぎだろ」といった顔をするが、シオンはまるで褒め言葉を受けたように喜んでいる。
そこへタイガが割って入った。
「それはいいが、本当に1級なんか取れるのか? 2級で十分なんだろ、普通は」
「だけど、《彜(い)》とか《醬(しょう)》とか、“本気”を感じさせる漢字がまだ山ほどあるんだぜ。なぜ深めたくならない?」
「俺には皆目わからねえけどよ……少なくともクラスじゃお前、“漢字辞典背負ったヘンなヤツ”扱いだからな。そこらへん自覚してんのか?」
タイガが呆れながら言うが、シオンは全く意に介さない。代わりにカグヤが小さく笑う。
昼休み、二人は購買で焼きそばパンを買ったあと、廊下の隅で腹ごしらえをしていた。
焼きそばパンをかじった瞬間、シオンは急に顔を上げて「そうだ、タイガ」と肩を叩く。
「お前も手伝ってくれ。1級、俺は一人じゃ心細いんだ」
「はあ? 俺、漢字とかさっぱりなんだけど。無理だろ」
「力が必要なんだよ。体力とか精神力とか、そういうフォロー。もし《暗闇書道》とか《百枚古文書模写》みたいなヘンな修行思いついたら、支えてほしい」
「結局ヘンなんじゃねえか……。でもまあ、お前のこと放っとくのもアレだし……いいか、付き合ってやるよ」
タイガは渋々ながらも、結局断りきれない様子だった。
放課後、廊下でまたカグヤと出会う。
シオンは勝利宣言とばかりに声を上げる。
「よし、決めた。俺は1級を取るために色々試す。タイガも巻き込む。いや、巻き込まれてもらう」
カグヤはタイガをちらっと見てから、小さく微笑む。「お似合いだわ」とつぶやく。何を意味するのかタイガにはわからないが、シオンはそれだけで上機嫌だ。
周りのクラスメイトも呆れ顔だが、彼らの熱気には及ばない。
廊下の窓の外には、まるで《靉靆(あいたい)》という言葉で形容したくなるようなどんよりとした雲が漂っている。
けれど、シオンの心は晴れ晴れとしていた。
1級を目指すなんて世間から見れば“無謀”かもしれないが、男のロマンを抱く彼にとっては、それこそが最大の“刺激”なのだ。
「一緒に頑張ろうぜ、タイガ」
何度もそう言う姿に、タイガは「やっぱりイカれてる」と嘆きながらも、どこか楽しげ。
カグヤは窓の外を眺めながら、「私も試験に向けて計画を立ててるから、あなたたちにも協力してほしい」と静かに告げる。
その目がシオンと交わり、かすかに挑発的な笑みを浮かべた。
「おう、望むところだ」とシオンが言えば、タイガは「ああ、やっちまったな」と頭を抱える。
しかし、その表情に暗さはない。
この奇妙な漢字バカたちは、すでに道を踏み出しているらしい。
《鷆(てん)》や《鷺(さぎ)》などレア漢字をどう日常で使うかを真剣に考え、しかも漢検1級という“難関”を正面から突き破ろうとしている。
どれほどの苦難が待ち受けようとも、彼らの足は止まりそうにない。
――少なくとも、シオンの胸は高鳴っていた。
男のロマンとやらをとことん追い求める覚悟はできている。
新たに仲間となったタイガ、それに同じ漢字狂を名乗る謎めいたカグヤとの出会いが、どんな〈厲(れい)なる試練〉、どんな大騒動を生み出すのか。
放課後の褪色(たいしょく)した校舎には、かくも幽玄(ゆうげん)なる予感が稠密(ちゅうみつ)に漂っていた。
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