咀嚼音

鬱ノ

咀嚼音

昔、付き合っていた彼女と、彼女の祖母の墓参りに同行した時の話だ。


彼女は、長期入院していた生前の祖母を頻繁に見舞い、僕もそのたびに車で送迎していた。親族たちは「早く楽にしてあげたい」と治療の中止を望んでいたが、唯一足繁く通っていた彼女の意見が尊重され、治療は続けられたのだ。

霊園へ向かう車内で、彼女が祖母について話しはじめた。


「延命治療を続けたのは、できるだけ苦痛を引き伸ばしたかったから」


その言葉に不意を突かれる。

母の連れ子であった彼女は、父方の祖母に異常に嫌われていたらしい。


「祖母は、他の親族がいる場では温厚な老婦人を演じていたけど、二人きりになると途端に罵詈雑言や暴力。躾と称して、火のついた線香を押し付けられたこともあった。家族に訴えても、自分でやったことにされるの。子供時代は父方の田舎への帰省がとにかく嫌だった。前に話したよね。祖母はリキという名前の土佐犬を飼っていて、小4の夏休み、私はその犬に襲われて入院したって」


「ああ、不運な事故だっけ?」


彼女の身体には、今も咬み跡がいくつも残っている。


「実際は、祖母が面白がってリキをけしかけたの」彼女は言った。


包帯が取れた頃、彼女は祖母から呼び出しを受けた。リキのことを謝りたいという理由だった。 両親と一緒に祖母の家を訪れると、庭先に祖母が立ち、横には鎖で繋がれたリキがいた。突然祖母は、持っていたクワをリキに向かって振り下ろした。フォークのように先端が四つに分かれた備中鍬だ。リキは悲鳴を上げて暴れたが、祖母は「この野郎!」と叫びながら、何度もクワを突き立て続けた。父が祖母を抑え込んだ時、リキは既に絶命していた。祖母が、息を切らしながら「子を孕めんよう腹かじりつけ言うたのに、役立たずめ」と言ったのを、彼女は確かに聞いた。

以降、祖母が癌で入院するまで、一切会うことはなかったそうだ。


彼女は淡々と話していたが、僕は衝撃的な内容に圧倒され、うまく相槌が打てなかった。


霊園に到着し、目的である祖母の墓前に立つと、彼女はiPhoneを取り出し画面を操作した。何かの音声が流れ始める。うめき声のようだ。彼女によると、それは病床で苦しんでいる祖母の声だという。スマホを、お供え物のように墓石に立てかけ、うめき声を墓前で流し続ける。「安らかに眠ってるなんて思いたくなくて」彼女は、録音目的で見舞いを続けていたのだという。十数時間分の音声データがあるそうだ。しばらくのあいだ、うめき声だけが静かな墓地に響いていた。


「もう少し聞いて」と彼女。


老婆のうめき声に耳を傾けるうち、何か異質な音が加わり始めた。


なんだろう、動物の息遣いのような。異音が、徐々に大きくなっていく。獣が何かをむさぼっているような音だ。同時に、うめき声のボリュームも上がり、ほとんど悲鳴になった。叫び声と咀嚼音が、終わりの見えない不協和音となってこだまする。僕はただ立ち尽くしていた。恐怖と居心地の悪さが重くのしかかり、息苦しい時間が続いた。


「聴く度に、内容が少しずつ違ってるの」


彼女は続けて言った。


「リキの骨を、骨壷に混ぜた」


僕は凍りついたままだった。


「祖母は地獄にいる。それを確かめるために、私もこうやって地獄に降りてこなくてはいけない」


(了)

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咀嚼音 鬱ノ @utsuno_kaidan

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