十一 Vanitas Vanitatum, et Omnia Vanitas
「やはりダメでしたか。残念です」
自分の顔と同じくらいの大きさの、巨大なパンをモグモグと頬張り、キエリはあっさりとそう言い放つ。その注意はもっぱらパンへと向いていて、こちらの窮地など、もはやどうでもいいと思っているようだった。
「いちおう、あなたには借りがありますからね。私もできることはやりました」
そんなこちらの内心を見透かしてか、キエリは俺の左手を見つめつつ、そんなことを言う。
「無理なら無理で仕方ないです。私に悔いはないので、あなたもサクッと死んでください」
「…………」
「……ナカムラ?」
「ん」
「もしかして、ショックなんですか?」
「まあな。いや、お前がアッサリしてたのは別にいいんだけど……やっぱりいざ死ぬとなると、怖いなあって」
一度、命が繋がってから……ローラーの釘が、俺のへその上を通過した時から。俺はなぜか純粋に「死にたくない」と思うようになっていた。
都合のいい人間の性さがというやつか、あるいは、「自分の命をないがしろにした罰」への贖罪か。それとも、ただセンチメンタルになっているだけなのか。
とにかく俺は塞ぎ込んでいて、そんな自分の後ろ向き具合にも、とことん嫌気がさしていた。
「パン、食べます?」
「ありがとう」
人並みの優しさを見せるキエリから、食いかけのパンの一欠片を受けとる。罪悪感が湧いたのだろうか。
まあ、くれたのはせいぜい一口分だったが……それでもありがたい。
「あなたでも死ぬのは怖いんですね。意外です」
「ああ、俺も意外だった。前は自分から死んだのにな」
「一度死を経験したからこそ、二度目を怖く感じるのかもしれません」
「いや……多分、そうじゃない」
「……?」
俺はずっと、この生への渇望が何か、というのを考えていた。
初めはキエリの言うような何気ない理由だったり、「聖教会を倒す」という目標のため、などと解釈していた。
でも、どれも違う。
たった一週間ぽっちの決意や目標で、恐怖を吹き飛ばせるほど、俺は強くない。
「俺のいた世界は、生きるのが凄く簡単だった」
「……?」
「スーパーに行けば、妥当な値段で飯が食える。病院に行けば、だいたいの怪我や病気は治してくれる。人殺しとかの犯罪者が出れば、警察が血眼になって捕まえてくれる……」
「それは……羨ましい話です」
「だろ? 俺たちは食事のために、牛さんを殺す必要すらなかった。
死が凄まじく遠い場所にあったんだ。まるで非現実の出来事みたく感じてた」
それは、恵まれているようにも思えるし、少しもったいないことのようにも思える。
「命のありがたさを……忘れてた。だから死のうがどうでもいいって、軽はずみな考えをしてた」
自分の考えを、口にすることで整理する。
この時のナカムラの目に、キエリの反応は写っていなかった。もっとどこか遠くの、昔の出来事を見つめていた。
……そうだ。
俺はここにきて、新たな結論に辿り着いた。
「生きることに意味はない。全ては虚無だ」
「……」
「でも、
そう。
俺はこの世界に来て、初めて自分の意思で、「生きる」を選択した。
一度生きると決めてからは、前よりもずっと生きたいと思うようになった。
目標ではなく。誰かのためでもなく。そして自分のためでもない。
ただ「生き延びた」という歴史が、俺の命に、大きな価値を与えてくれたんだ。
そんな俺についた能力が、再生能力。まさしくおあつらえ向きといえるだろう。
「生きる目的があって、生き延びてきた歴史があって、生き残る力がある。だから、死にたくない……! 死んでたまるか!」
鬱に飲み込まれたはずの自分が、知らぬ間に奮い立っていた。
「こんな場所とっとと抜け出して、俺は聖教会を潰す! 生き延びるために!」
「……情緒不安定ですね、ナカムラ」
「そこは拍手とかしてくれよ。魂の叫びなんだぞ」
「拍手はしませんが、胸に響いたのは事実です。そこは認めます」
キエリは徐に立ち上がると、口をあんぐり開いてパンをねじ込む。
「ふぁふぁひふぁっふへほ!」
「食ってから話せ」
「ひふれぃ……」
口元に手を当て、キエリはまた座り込む。
本人は真面目なんだろうが……たまにこいつの天然っぷりが無性に腹立たしくなる。せっかくやる気になったのに、調子狂うだろうが。
「ごちそうさまでした」
「相変わらず行儀がいいな……それで、なんて言ったんだ?」
「あなたに稽古をつけてやる。と、言いました」
「え……なんで?」
稽古。実にワクワクするワードだ。
でもそんなことより、やはり「なぜ?」が先に来る。キエリはそんなことせずとも助かるのだし、先ほどまで「まあ、ちょっと可哀想な気もしますけど、転生者だからしょうがないですね。さよなら〜」ぐらいのスタンスだったはずだ。
いったい、どういう風の吹き回しだろうか。
「まだ時間がありますし、その間の暇つぶしです」
「釈然としない理由だな。気まぐれで転生者を助けるような人間……龍じゃないだろ?」
「他に、理由が三つ」
「黙れ」の印に、キエリの三本指が顔面に突きつけられる。
「一つ。先ほども言ったように、あなたには借りがあります。返せない借りは返しませんが、返せる借りは必ず返す。
それが私の主義です」
「立派なような、すっげえクズなような……よくわかんねえ主義だな」
「二つ」
キエリの「黙れ」が俺の口元へとスライドする。
「あなたの演説が気に入りました。特に「全ては虚無だ」というフレーズと、生き延びた歴史というフレーズがよかったです。
あなたから人間臭さを感じました」
「まあ、そりゃ人間だし……むぐっ!」
「三つ」
キエリの「黙れ」がとうとう俺の口を摘み上げた。かなり痛い。
「あなたの、
「……?」
「詳しくは説明しませんが、私の予想が正しければ、あなたは中々の力を持っています」
「ふぁんで?」
「…………」
ナカムラのジッポーライター。
それをどこで見たのか。キエリはこの一週間考えて、ついに思い出したのだ。
なぜ、彼がそれを持っているのかはわからない。
ひょっとすると、似ているだけの別物かもしれない。
だが、もし……もしも同じ物で、それがキエリの
「あなたの……人間性に賭てみます」
「……?」
「本当は、あなたを殺すべきなのかもしれません。ですが
だからあなたが借りを返す人間だと期待して、恩を売ることにします」
そして彼を殺すのではなく、道を踏み外さぬよう、手綱を握る……。
それが、それこそが……紅龍と世界のためになるはずだ。
彼女は、そう決断した。
ひとまず、そう決断した。
まあ無理だったら、その時はサクッと殺してしまおう。
そんな企みを、腹の奥に飲み込んでから。
――――――――――――
・補足
キエリは龍なので昼間だけ外出が許可されてます。
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