二 試練の時です
「あっ……ぐ」
あれから、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。
湿り気のあるグロテスクな音。悲痛にあえぐ息遣い。
あまりに、聞くに耐えない。俺はあとどれくらい、こうして目の前の惨劇から目を背けていればいいのだろうか。
「なにが、目的なの……うっ」
「今日は、よく、耐えますね」
「質問にっ……答えて」
「ああ、あなたを傷つけたくない。なのにそうして気丈に振る舞われると、わた、私は……さらに手を汚さねば、なりません」
彼女は情報をひき出すためか、何度も似たような質問を少年にした。しかしその努力も虚しく、彼は少しも耳を貸そうとはしない。
彼女が口を開くたびに、その肉を抉る音は大きくなっていった。
もう、我慢の限界だった。
「やめろ!」
その瞬間、全ての音が止む。異様な静寂。
「もうやめろ。その子が……俺らが、何したって言うんだよ」
「お目覚めでしたか。新入りの、転生者さま……」
少年はギギギと音がしそうな動きでこちらを向くと、血溜まりの上に膝をつき、
釘はまだ彼女の腹に深々と突き刺さったままで、そこからは滝のような血液がドクドクと溢れていた。彼女は俺の顔を見て力無く俯くと、しばしの小休止に体を震わせる。
「私は神聖逆十字教会、七席騎士議会第四席……ローラー・ペグ・ロイギラファと申します」
「……長い肩書きだな、イカれ野郎。
人を痛めつけるのが趣味な、ヤバい神様を信じるお前なんかには、もったいねえ名前だよ」
俺の言葉に、ローラーの動きがピタリと止まる。
大丈夫。大丈夫だ。これでいい。
こいつは……頭のおかしい、いかにもな狂信者だ。こういう手合いは概して自分中心に物事を考えていて、興味のない話題や、答えにくい質問は耳に入れたがらない。
だったら、こちらから話したいことを引き出してやればいい。神様を使って挑発されれば、こいつは嫌でも答えざるをえなくなる。
相手を刺激することにはなるが……問題ない。こういう交渉じみたやりとりは俺の得意分野だ。自信がある。
「我らが神を、愚弄なさるつもりですか?」
「違うのか? だったら教えてくれよ。お前らの神様はいったい何で、どうして俺らを苦しめる?」
「苦しめる……ええ、ええ。私も胸が痛みます」
「……だったら、こんなことやめろ」
質問に答えはなく、当然のように話の主語がすり替わる。神様への言及を避けたいのだろう。これ以上の刺激を避けたかった俺は、とりあえず話に乗る。
「お前だって、わかってるんだろ? こんなの間違ってるって」
「間違って……いるのでしょうか。私にはわかりません。事の正誤を判断する前に、私たちは試練の時を乗り越えなくてはならない」
「間違った方向に進んでるかもしれない。そんな思考停止でやって乗り越えられるほど、試練って簡単なのか?」
「それは……」
ローラーが口ごもる。
それっぽいことを話してはいるが、実を言うと、こいつの考えはちっとも理解できてない。
というか、おそらく理解できるシロモノではない。まるで他人の夢の話を聞いてる気分だ。どこからが事実で、どこからがこいつの妄想なのか、いまいち判然としない。
しかし確かに、手応えのような物を感じていた。
彼の中に残虐性への葛藤があるのは事実で、そこを刺激すれば、きっと活路が見えるはずだ。
「お前は、なんでこんなことをしてる?」
「……崇伐です。崇高なる者を伐します。あなた方を伐します」
一度ついたはずの蝋燭がまた揺らめき、その勢いを弱め始めていた。
今のところはうまくいっている……はずだ。あとは、俺たちが敵ではないということを、理解させるだけ。
「その、崇伐とやらは……なんで?」
「なぜ、とは……?」
「あ、いや。どうして俺たちが崇高なのかなって。俺には、お互い同じ人間に見えるけどな」
「いいえ、あなた方は我々とは違う。かつて恵みを与えた、神のつかい」
「俺は神様につかわされた記憶なんてない。その存在すら、お前に聞かされて初めて知ったぐらいだ」
「知らない……?」
「ああ。人違いでもしてるんじゃないか?」
「そうですか。そういうことも、あるのですね」
「恵みとやらなら……まあ、多少はできるかもだけど。色んな知識があるし、科学とか、医学とかには貢献できる」
「ええ、ええ。なるほど……」
「そうやって、あなた方は、世界に毒をばら撒くのですね」
ふっと音がして、蝋燭の火が消える。
「……え?」
「あなたたちは力を与え、その軍勢を大きくしていく。我々を、滅ぼすために」
「ち、ちがう。そうじゃない。俺は別にお前らをどうこうする気は……」
「ええ、ええ!あなたの言いたいことはわかります。よくわかります皆そう言います。「敵ではない」、「私たちは人類を害さない」」
少年は突然半狂乱になって、羊皮紙の手帳を振り上げる。
なにが狂気のトリガーになった? 途中まではうまくいったはずだった。恵みの話題がまずかったのか……あるいは、灯りが消えたからなのか?
「ええ。あなたもきっとそうでしょう。
ですが私たちも同じです。少なくとも私は同じです。私もあなたの敵ではない。そうありたくはない。だけど仕方がない。それが神の定めた崇伐の試練。崇伐の試練なのです!」
そんな反省をする暇もなく、少年はガクガクと顎を揺らし、天を仰いだまま後ろを振り返る。
「待て……やめろ!」
「崇伐! 崇伐します! そこで見ていてください転生者さま。この女の血を浴びます。私の手を汚します。二人も残す必要はありません!」
「ひっ、や、やだ……」
「別にその子じゃなくてもいいだろうが、ローラー! それがお前の神様の望みか⁉︎」
「はは、はははははっ! ほら、目を背けないで、よく見てください! あははっ!」
もう、ローラーはこちらの話を聞こうとはしなかった。
絶叫、笑い声、血と肉、鎖の音……。
こちらが絞り出した小手先は、かくして全てが無駄という形で終わってしまった。そんな失敗の対価として、彼女の悲鳴が、まるで俺を責めるかのように鼓膜に突き刺さったのだった。
――――
俺の異世界転生は、最悪の幕開けを迎えた。
どの世界に行こうと、俺が俺である限り、同じように絶望することは変わらない。それを嫌でも実感した、印象的な出来事だったように思う。
ローラーはこの時代を、「試練の時」と呼んでいた。それは彼ら、つまり異世界人から見た視点の言葉だったが、俺は一方で、自分がまた別の「試練の時」を生きているのだと感じていた。
ぬるま湯の地獄から抜け出して、烈火の焦熱地獄に叩き落とされたのだ。
俺は世界を知り、己を知り……この世界で、生きていかなくてはならない。
言葉も文化もわからない世界で、周りは敵だらけ。手探りの、生存闘争。まさしく試練だろ?
とにかく……少なくとも確かなのは、俺はこの異世界で、最大級のチャンスと絶望を同時に与えられた、ということだった。
これら二つは、当時の俺には輪郭すらも見えていない。
だが、それも時間の問題だ。
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