一 初手、詰み

「――きて。おきて!」


「あ……?」


 混濁した意識の世界から抜け出して、まず初めに目にしたのは、両手両足を拘束する鎖だった。


 窓一つない牢屋は壁にかけられた蝋燭以外に光がなく、周囲は足元すらもおぼつかない。

 しかし消毒液のようなヒヤリとした冷気と、微かに鼻をこする血の匂いから、少なくともここが安全な場所でないことだけはわかった。



「あなた、大丈夫?」


 俺の前には、同じように拘束された一人の女性がいた。人種は白人で、年齢は少し上に見える。


「ああ、俺は……いやむしろ、そっちの方が大丈夫なのか?」


 彼女の服についた赤黒いシミを見つめ、俺は同じ質問を投げかえす。

 どう考えても血のあとだ。久しぶりに見たので、少しギョッとした。


「大丈夫もなにも……あなた、何か知らない?」

「何かって?」

「この状況よ! ほんと、訳がわからない。もう、毎日……!」


 彼女はまくし立てるように話したあと、突然口ごもり、苦痛を噛み殺すように泣き始める。


「うっ……毎日、拷問されて……」

「ごっ、拷問?」


 いきなり出てきた物騒なワードに、思わず鎖をジャッと鳴らした。


 急展開が過ぎるだろう。何がどうしてこうなったのかも分からないのに、いきなり牢屋に監禁されて拷問なんて、冗談じゃない。俺はたしか、あの時死んだはず……。


 いや、わかる。

 まだ意識がぼーっとしているが、この展開。

 「あの時死んだはず」という、テンプレートな困惑。


 異世界転生。


 しかし俺の知ってる異世界転生ではない。少なくともそれは、拷問という剣呑なワードからスタートするものじゃない。

 


「あの、全く意味がわからないんだが……なんでだ? なにかその……拷問されるような、悪いことでもしたのか?」


 俺は「拷問」という言葉に自分でも戦々恐々としながら、彼女にそう尋ねる。

 もう本当に、マジで意味がわからない。混乱で脳がショートしそうだった。


「知らないわよ……あいつら、イカれてる」

「具体的に、何されたかとかは……?」

「……」

「……だよな。ごめん」


 なんとなく、居心地の悪い沈黙が流れる。

 蝋燭の火は薄暗がりに揺れ、今や消え入りそうなほど小さくなっていた。



 こうして静かになると、なぜか急に冷静さが戻ってきた。

 これはおそらく、アレだ。脳がショートしたんだ。もう何もかもが意味不明だから、とりあえず「ふーん、そうか」と流す感じ。


 冷静ついでに脱出できないかと動いてみるが、ただのくたびれ儲けだった。両手両足は鎖でバッチシ固定されてるし、壁に対して上半身がやや前傾する形になっているせいで、安定した姿勢が取りにくい。動けば動くほど、余計な体力を消耗した。

 


「どうせ逃げてもムダよ。外にあいつらが大勢いる」


 こちらが一通りもがいたのを見届けてから、女がため息混じりに呟く。「悪いことは言わないから諦めろ」。そう言いたげな口調だった。


「さっきから言ってる、あいつらって誰なんだ?」

よ」

「……聖教会?」

「私たちが転生者で、それを殺すのが使命だって。詳しくは知らない」

「それは……なんというか、すごく嫌な組織だな」

「頭のおかしいカルト集団なのは間違いないわね」


 俺の小並感満載の感想に、彼女は含み笑いと共にそう答えた。

 少し落ち着いてきたように見える。こちらとの会話で多少気が紛れたのか、あるいは、この人の脳もショートしたのかもしれない。


「転生者っていうのは……まあ、もしかしなくても俺たちのことだよな」

「そうね。とにかく憎まれてるみたいよ、私たち。何も悪いことなんてしてないのに」

「聖教会は何が目的でそんなことを……」

「さあ……というか、それを考えて何になるの?」

「え?」

「この鎖が解けなきゃなんの意味もないじゃない。どうせ目的なんかないわよ。話すなら、もう少しマシな話題がいいわ」

「マシな話題って?」

「えー……あなたはどうして死んだの? ちなみに私は自殺」


 それのどこがマシな話題なんだ。

 そうつっこみたくはなったが、声色からして、彼女は割と真剣らしい。とにかく聖教会や転生者などのワードから離れたいのだろう。


「えっとたしか……俺は、普通に交通事故だ。車にひかれた」

「そう……かわいそうに」

「自殺に比べたらマシだと思うけどな」

「望んでないタイミングで死ぬなんて、それはそれで辛いことよ。私はただ、現実に絶望しただけだから」


 独特な価値観の人だ。しかし、一理あるような気もする。


「少しわかるよ。俺も現実に絶望してたのは同じだった」

「同情してくれてるの?」

「違うよ。仕事辞めて、ボーッとしてて……疲れてたからさ。車が来たときに『ヤバい死ぬ!』って思う一方で、少しだけ『好都合だな』って思ってた」

「……」

「今思い返せば、あれも自殺みたいなモンだったのかなって」

「……後悔してる?」

「別に。運転手には申し訳なかったと思ってるけど」

「ふふっ! こんな目にあってるのに?」

「そこにいきどおりは感じてる。死ぬ前ですら辛かったのに、死んでからも辛いとか、神様は残酷だ」

「ほんとにね。言えてる」


 会話の内容こそ暗かったが、二人を包みこむ空気は不思議と和やかだった。

 同じ状況、同じ痛みを抱えた者同士の、親しみというやつなのかもしれない。


「……もしかしたら、罰なのかも」

「罰?」

「自分の命をないがしろにした、罰」

「……」


 会話が止まり、少しの間が空く。おそらくこれは、お互いの言葉を噛み砕く時間だったのだろう。


 「自分の命をないがしろにした罰」という彼女の考えは、妙に染み入るものがあった。

 誰よりも命を大事に思ってきたつもりだった。でも、自分の命は大事にしなかった。


 これはその……罰。



 いや、まあしかし、現実的な発想ではないな。

 スピリチュアルなことを考えても仕方ない。もっと役に立つことを考えるべきだ。


 聖教会の目的は、俺たち転生者を殺すこと。なぜ殺すのかと言えば、憎いからだ。なぜ憎いのか……は、わからない。

 転生者の目的は……その人次第か。


 というかこれ、考えて意味のあることか?

 情報が少なすぎる。俺の手持ちの情報は、とにかく聖教会が転生者をぶっ殺そうとしている、それだけ。こんなのでまともな答えを出せるわけがない。



 そんな考え事にふけっていた時。

 不意に、遠くから金属音が聞こえた。


 一定のリズム……靴音だ。鎧を着ているのだろう。



 「ひっ」と、彼女が息を吸いこむ。


「来た……」

「例のあいつらか?」

「目を閉じて、静かにしてて! 私は大丈夫だから……」

「それは……」

「いいから!」

 ――ガチャン!


 錠を解く音と共に、重厚な金属扉がゆっくりと開く。


「さあ、さあ……時間です」


 白銀の鎧と、青いマント。背中には逆十字と新月の紋章。

 くせのかかった、白に近いブロンドの髪……。


「お目覚めは、いかがでしょうか。崇貴、崇貴なる、皆様」


 壊れたレコードのような、不安定な口調で、天使のような少年はゆったりと片膝をつく。

 消えていた蝋燭の火が再び灯り、少年の全容がくっきりと浮かび上がった。そして思わずゾッとする。



 彼は、全身血まみれだったのだ。新しいものから古いものまで、とにかくおびただしい量の血液が、まるでまだら模様みたく鎧や顔にこびりついていた。

 左手は特に血の量が凄まじく、そこに握られた釘のような何かからは、少しとろみのある血液がポタポタと滴り落ちていた。


「お時間です。お時間です」


 そう言って立ち上がり、右手に持った羊皮紙の手帳をパラパラとめくる。


「っ……!」


 彼女は「寝たふりをしろ」ではなく、「動かず、静かにしていろ」と言った。その意味を今、ようやく理解する。

 彼の両目は、上下のまぶたにかけて、びっしりと縫い合わされていたのだ。まるで子供が人形を補修したような、極めて乱雑で、不必要なほどに念入りな縫い口で。


「崇伐の、お時間です」


 彼の閉じた瞼は、明らかにこちらの目を見つめていた。

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