●第3章:灰色の研究所
意識が戻った時、レイラは知らない天井を見上げていた。白い壁、消毒薬の匂い、そして遠くで聞こえる機械音。どうやら医療施設のようだ。
「お目覚めですか、お嬢様」
ベッドの傍らから、懐かしい声が聞こえた。
「ジェームズ……? どうして……」
かつての執事が、心配そうな表情でレイラを見守っていた。しかし、その姿は以前とは違っていた。執事の制服ではなく、白衣を着ているのだ。
「私は実は、テンペスト社の保安要員を務めているのです。ブルーローズ家に潜入し、様子を探るのが任務でした」
ジェームズの声には悔恨の色が滲む。
「しかし、お嬢様とご令室の崇高な精神に触れるうち、次第に任務よりも皆様の安全を願うようになってしまいました」
レイラは黙ってジェームズの告白を聞いていた。
裏切られたという怒りよりも、今ここにいる彼を信じたいという気持ちの方が強かった。
「母様は……?」
「ご安心ください。既に安全な場所に避難していただいております」
ジェームズは立ち上がり、窓の外を指さした。
「ここはテンペスト社の秘密研究所です。表向きは療養施設となっていますが、実際は新薬の人体実験が行われている場所です」
レイラはゆっくりとベッドから起き上がった。窓の外には広大な庭園が広がっているが、その周囲は高い壁で囲まれている。まるで監獄のようだ。
「エターナルの実験も、ここで……?」
「はい。そして、お嬢様の推測は正しかったのです」
ジェームズは声を潜めて続けた。
「エターナルには重大な副作用があります。ナイトレス専務は、その事実を隠蔽しようとしている。エドワード卿が発見したのも、それだったのです」
レイラの目が鋭く光った。
「証拠は?」
「地下の研究室に保管されています。しかし、そこへ行くのは……」
「案内してください」
レイラは毅然として言い切った。
「私には父様の無実を証明する義務があります」
ジェームズは一瞬躊躇したが、やがて小さく頷いた。
「わかりました。しかし、時間は限られています。夜間の巡回が始まる前に戻らねばなりません」
二人は慎重に施設内を移動した。ジェームズの身分証で、ほとんどの扉は開くことができた。しかし、地下への階段に着いた時、予想外の人物と遭遇する。
「こんな時間に、どちらへ?」
声の主は、若い研究員だった。切れ長の目と整った顔立ちの青年は、どこか東洋的な雰囲気を漂わせている。
「カイ・ナイトレス……」
ジェームズが緊張した面持ちで呟いた。専務の養子であり、研究部門の責任者である人物だ。
「レイラ・ブルーローズ嬢」
カイはレイラをじっと見つめた。
「あなたの論文は、すべて読ませていただきました」
レイラは驚いて目を見開いた。彼女の論文は全て匿名で発表されていたはずだ。それなのになぜ……。
「私にも、人の才能を見抜く目はある。あなたほどの頭脳が、このような形で潰されるのは実に惜しい」
カイは懐から一枚の認証カードを取り出した。
「地下研究室の鍵です。使い方は、あなたならわかるでしょう」
レイラは戸惑いながらもカードを受け取った。
「なぜ……」
「私にも、知るべき真実があるのです」
カイはそれだけ言うと、背を向けて立ち去った。その後ろ姿には、何か深い哀しみが垣間見えた。
地下研究室は、レイラの想像をはるかに超える規模だった。膨大な実験データが、整然と保管されている。
「こちらです」
ジェームズは一枚のファイルを取り出した。それは、エターナルの臨床試験の記録だった。
レイラは震える手でファイルを開いた。そこには、エターナルの臨床試験データが時系列で整然と記録されていた。
「これは……」
彼女の瞳が数字の羅列を素早く追う。エターナルの主成分である合成ポリペプチドETP-47の分子構造式が最初のページに記されている。その横には、予測された代謝経路の図があった。
レイラは自身の手帳を取り出し、先日解読した数式と照らし合わせる。
「父様の計算は正確でした。問題は代謝過程にあったのです」
彼女は急いで計算を始めた。エターナルは体内で代謝される際、まずETP-47がアミノ基転移酵素によって分解される。その過程で生成される中間代謝物質X-274は、本来なら速やかに無害な物質へと変換されるはずだった。
しかし――。
「12時間後の血中濃度……0.85mg/mL」
レイラの指が震えた。これは予測値の8.5倍。さらにその代謝産物Y-592の蓄積も著しい。
「ミトコンドリア機能検査の数値……ATP産生量が健常者の42%まで低下」
ページをめくる手が早まる。
「肝機能検査……AST:98 U/L、ALT:112 U/L。いずれも基準値の3倍以上」
そして最も衝撃的だったのは、長期投与群のデータだった。
「投与開始から6ヶ月後、対象者の67%に重度の臓器障害。そのうち41%が……」
レイラは一瞬目を閉じた。数字が意味することがあまりにも重すぎたのだ。
「これが、テンペスト社が隠蔽しようとしていた真実」
彼女は素早く計算式を書き記す。ETP-47の代謝経路に関する微分方程式を解くと、その毒性は投与量に対して指数関数的に増加することが判明した。
dX/dt = k1[ETP-47] - k2[X-274]
dY/dt = k2[X-274] - k3[Y-592]
ここでk1は0.92、k2は0.11、k3は0.03――これらの反応速度定数が示すのは、中間代謝物質の蓄積が不可避だということ。しかも、その蓄積量は個人差が大きい。
「効果を得るために必要な投与量では、少なくとも32%の患者に致死的な副作用が……!」
レイラは次々とページを繰り、各データを照合していく。生存曲線、臓器機能検査、血液生化学的検査――すべての数値が、彼女の計算の正しさを裏付けていた。
「解毒剤の開発も……不可能」
最後のページには、解毒剤の開発を試みた痕跡があった。しかし、Y-592の細胞毒性は不可逆的なものだった。Caspase-3の活性値は投与後48時間で基準値の6.7倍に上昇。これはアポトーシス(細胞死)が大規模に誘導されていることを示している。
レイラは重要な数値をすべて手帳に書き写した。これらの数字の一つ一つが、エターナルの開発中止を訴えた父の主張の正しさを証明している。そして同時に、この薬を市場に出そうとしたテンペスト社の重大な犯罪も明らかにしていた。
「警報が……!」
ジェームズの声で、レイラは我に返った。だが、彼女の手には既に必要な証拠がすべて揃っていた。
「誰かが侵入を察知したようです。急ぎましょう!」
ジェームズの声が焦りを帯びる。しかし、その時、研究室のドアが大きな音を立てて開いた。
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