●第2章:隠された方程式
曇天の下、レイラは馬車を降り、テンペスト製薬の本社ビルを見上げた。ヴィクトリア朝様式の重厚な建築物は、まるで彼女を見下ろすかのように聳え立っている。
「レイラ、無理はしないで……」
母メアリーの心配そうな声が背後から聞こえた。以前なら、母は決してレイラを一人で外出させなかっただろう。しかし今や、使用人もなく、家計も逼迫している。貴族の誇りを捨て、たった二人で必死に生きていかねばならない。
「大丈夫です、母様。私は父様の担当していた書類を整理しに来ただけですから」
レイラは母に柔らかな微笑みを向けた。しかし、その胸の内ではすでに計算が始まっていた。父の弁護を担当することになったマーカス・グリーンウッド弁護士から、テンペスト社が父の私物の引き取りを許可したと連絡があったのだ。
普段は立ち入ることのできない本社での調査。これは絶好の機会だった。
「お嬢様、こちらへどうぞ」
受付で案内された若い社員が、レイラを応接室へと導いた。その途中、彼女は建物の構造を頭に刻み込んでいく。監視カメラの位置、非常口の場所、そして各部署の配置。後の調査のために、すべての情報が必要だった。
応接室には、一人の男性が待っていた。
「ようこそ、レイラ君。私がテンペスト社の専務、アレクサンダー・ナイトレスだ」
40代半ばの男性が、親しげな笑みを浮かべて立ち上がった。しかし、その目は笑っていない。レイラは直感的に、この男性が父の事件に何らかの関わりを持っていることを悟った。
「父の書類を取りに参りました」
「ああ、もちろん。だが、その前に少し話をしないか? 君のような聡明な方なら、わかってくれると思うのだが……」
ナイトレスは優雅な仕草でソファを示した。レイラは静かにそこに腰掛ける。
「実はな、君のお父上には、もう少し大人しく身を引いていただきたかったのだ」
「どういう意味でしょうか?」
「新薬『エターナル』の認可申請に関して、お父上は少々……本当に少々だが……口うるさかった。安全性の再検証を要求され、スケジュールに支障をきたしていたのだ」
レイラの背筋が凍る。エターナルは、テンペスト社が開発中の画期的な抗がん剤だった。しかし、父はその副作用について何度も警告していたはずだ。
「私の父は、ただ正しいことを……」
「正しいこと?」
ナイトレスが不敵な笑みを浮かべる。
「ビジネスにおいて、正しさとは何かな? 君のお父上は、理想に囚われすぎていた。結果として、こうして身を滅ぼすことになった」
レイラは唇を噛んだ。この男の言葉の端々に、父を陥れた黒幕の影が見え隠れする。しかし、今はそれを証明する手がかりがない。
「書類はこちらだ」
ナイトレスは横の机に置かれた段ボール箱を指さした。
「すべて確認済みだ。機密情報は除去してある。このまま持ち帰っていただいて結構だ」
レイラは黙って箱を受け取った。中身は事務的な書類ばかりで、父の私物さえほとんど残っていない。しかし、彼女の鋭い観察眼は、一枚の付箋に書かれた数式の断片を見逃さなかった。
「ところで、レイラ君」
去り際、ナイトレスが声をかけた。
「君の化学の才能は、業界でも評判だ。もし興味があれば、我が社で働かないか?」
レイラは振り返り、凛とした声で答えた。
「ご厚意に感謝いたします。しかし、私にはまだやるべきことがございます」
本社を後にしたレイラは、馬車の中で密かに付箋を調べた。そこには一見無意味な数字の羅列が記されている。しかし、彼女の目には、それが化学式の一部に見えた。
「これは……マスキング剤の分子構造?」
レイラの脳裏で、新たな仮説が形作られ始めていた。父が発見した何かが、この数式に隠されているのではないか。
その夜、レイラは書斎で徹夜の研究を始めた。微かな灯りの下、彼女は次々と計算を重ねていく。化学式を解読し、分子構造を推測し、そして可能な反応経路を探っていった。
夜が明けた頃、彼女は一つの結論にたどり着いた。
「これは……まさか……!」
レイラの手が震えた。もし彼女の推測が正しければ、エターナルには致命的な欠陥が隠されている。そして父は、それを発見してしまったのかもしれない。
しかし、その時、背後で物音がした。
「誰!?」
振り返った時には遅かった。何者かの放った煙が、書斎内に充満する。
レイラは咄嗟に手帳を握りしめ、窓に向かって走った。しかし、足元がふらつき、視界が暗くなっていく。
「お嬢様!」
意識が遠のく直前、どこかで聞き覚えのある声が聞こえた。しかし、それが誰の声なのか確かめる暇もなく、レイラは深い闇の中へと落ちていった……。
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