【19世紀ロンドン医療企業巨悪暴露短編小説】アンチドートの花嫁~蒼薔薇の令嬢は真実を暴く~(9,946字)

藍埜佑(あいのたすく)

●第1章:蒼き薔薇の凋落

 朝もやの立ち込めるロンドン郊外の邸宅で、レイラ・ブルーローズは実験ノートに最後の数式を書き記していた。薄暗い書斎の灯りが、17歳の少女の整った横顔を浮かび上がらせる。インクの染みた指先で、彼女は長い黒髪を耳にかけた。


「これで証明できるはず……」


 机上に並ぶ試験管の中で、淡い青色の液体が静かに凝固していく。完璧な結晶化の過程を、レイラは鋭い眼差しで見つめていた。


 突然、階下で物音が聞こえた。普段なら執事のジェームズが取り次ぐはずの来客だが、この日は珍しく直接的な闖入者の気配がする。レイラは慌てて実験道具を隠し、書斎の扉に耳を当てた。


「エドワード・ブルーローズ卿! これは警察の捜索令状です!」


 怒号とともに、重い足音が階段を上がってくる。レイラの心臓が早鐘を打ち始めた。父の名が呼ばれた瞬間、彼女は直感的に何か重大な事態が起きたことを悟った。


「お嬢様! お嬢様!」


 慌ただしくドアをノックする音とともに、老執事ジェームズの声が響く。


「レイラお嬢様、すぐに書類を……!」


 レイラは即座に行動に移った。実験ノートを暖炉に投げ込み、机の引き出しから父の重要書類を取り出す。それらを自室のドレスの裏地に縫い込むのは、以前から想定していた非常時の対応だった。


 扉が開かれた時には、書斎はいつもの淑女の勉強部屋に戻っていた。フランス語の詩集が開かれ、刺繍枠が置かれている。


「令嬢、ご心配には及びません」


 警部補を名乗る男性が丁寧に一礼した。しかし、その眼差しには冷たい光が宿っている。


「エドワード卿には任意での事情聴取をお願いしております。製薬会社テンペスト社の新薬開発に関する機密情報の流出について、お話を伺いたい案件がございまして」


 レイラは背筋を伸ばし、落ち着いた声で返答した。


「父は潔白です。テンペスト社との取引について、父は何も違法なことはしていません」


「それは調査の結果が証明することでしょう。しかし、現時点では……」


 警部補の言葉は中断された。階下から物音が聞こえ、続いて母メアリーの悲痛な叫び声が響いた。レイラは咄嗟に廊下に飛び出そうとしたが、警官に制止される。


「お父様!」


 レイラの叫びは虚しく廊下に響いた。階下では、父エドワードが警官に囲まれながら邸を後にしようとしていた。いつも凛として誇り高かった父の背中が、この時ばかりは小さく萎んで見えた。


 それから数週間、ブルーローズ家は地獄のような日々を過ごすことになる。


 父エドワードは保釈されたものの、テンペスト社の機密情報を競合他社に漏洩した容疑で起訴された。証拠は状況証拠ばかりだったが、テンペスト社の顧問弁護士を務めていた父の立場は、かえって不利に働いた。


 華やかな社交界から突然転落し、かつての友人たちは次々と背を向けていった。召使いたちも、給料の遅配を理由に去っていく。最後まで残ったジェームズも、涙ながらに暇を告げた。


「お嬢様、どうかお気をつけて……。私めにできることがございましたら……」


 レイラは静かに首を振った。


「ジェームズ、長年のご奉仕に感謝いたします。これからは、私たちの力で立ち直ってみせます」


 最後の召使いを見送った日、レイラは書斎の窓辺に立ち、庭に咲く青薔薇を見つめていた。品種改良に成功した父の誇りだった青薔薇は、今や手入れが行き届かず、徐々に色を失いつつあった。


「父様は絶対に無実です。でも、なぜ……どうして……」


 レイラの瞳に決意の色が宿る。父の無実を証明するため、彼女は自身の才能を使うことを決意した。化学と数学の知識、そして幼い頃から培ってきた論理的思考力。それらを総動員して、真実に迫るのだ。


 しかし、彼女は知らなかった。これが想像以上に危険な探究となることを。そして、その過程で自身の人生が大きく変わることも。


 雨の降り始めた窓ガラスに、レイラの決意に満ちた表情が映り込んでいた。


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