第8話 入学式

大学の「入学式」というものに対する知識が足らなかった。

あんなに調べたはずなのに。




兄の時は、そんな大事な日に兄を不愉快にさせないよう、目を合わさないようにして、玄関で「行ってらっしゃい」を言っただけだった。

スーツ姿のパパと、この日のために新調したワンピースにジャケットを着たママ、そして何を着てもかっこいい兄の3人が家を出た後、急いでパパの書斎に入って、出窓から3人の乗った車が見えなくなるまで見送った。




「9時開場」という言葉のままに、会場となる講堂に9時頃着くと、周りは既に人であふれかえっていて、中に入れそうにない。


式に出るのはあきらめてしまおうと、入り口の前で急に向きを変えたせいで、すぐ後ろにいた人とぶつかってしまった。


「ごめんなさい!」


謝ってすぐに自分の大失態に気が付いた。

ぶつかった相手は、スーツの上着を脱いでいたせいで、真っ白なシャツの胸元に、くっきりとピンクオレンジの唇の痕がついてしまっている。


「ごめんなさい……どうしよう……」


もう一度謝ったものの、こんな大事な日に取り返しのつかないことをしてしまい、おろおろする私に、ぶつかった相手は自分の胸元を見て、笑った。


「ホントに、こんなくっきりつくもんなんだ」


「クリーニング代はお支払いします。でも、今日は――」


「いいよ、気にしないで。上を着ちゃえば見えないから」


そう言いながら、彼は手に持っていた上着を着た。


「それに入学式の会場には入れそうにないみたいだから、もう帰ろうと思ってたところだったし」


「クリーニング代をお支払いします!」


財布から1万円札を出した。


「これしか今持ってなくて……」


「本当にいいって。気にしないで」


そんなやり取りをしているところへ、女の子の声が割って入った。


昴生こうせい、入学式でナンパ? じゃなくてカツアゲ?」


肩より少し長いくらいいの茶色い髪を緩く巻いて、目元にキラキラとしたメイクをしたその子は、目の前のひとの名を親しそうに呼んだ。


「どっちも違うって」


「本当に違います! 私がぶつかったせいで、シャツに口紅をつけてしまって、クリーニング代をお支払いしようとしたところで……」


「1万円?」


「これしかなくて」


「スマホに送金できるアプリ入れてないの?」


「そういうのに詳しくなくて」


自慢じゃないけどスマホは全然使いこなせない。

そもそも、ちょっとした調べ物や電話以外、あまり使ったことがない。


「じゃあさ、入学式も出れそうにないし、3人でご飯でも食べに行こっか」


「何でそうなるんだよ?」


「だって彼女、お金崩せるじゃん。ねぇ?」


「そうですね、行きます」


「ほらぁ」



半ば強引な誘いではあったけれど、彼にはきちんと謝罪をしたかったので、救われた形になった。

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