第5話

降り続ける雨は止むこともなく、窓ガラスを叩く風の音が絶えず聞こえている。


ベッドの上に膝を抱えて座ると、頭の上からすっぽりと毛布を被った。

雨音が大きくなる中、遠くでまたサイレンが鳴っている。



きらいきらいきらい……あめはきらい。サイレンのおともきらい。



コンコンというノックの音と一緒にドアが開き、廊下の明かりが一筋部屋に入ったかと思ったら、すぐに消えてなくなった。


「優海禾、入れて」


兄が私の名前を呼びながら、毛布の中に滑り込んで来た。

冷たい空気と一緒に、柔軟剤の優しい香りが鼻をかすめ、冷んやりしたパジャマがふれる感触。

カチッという小さな音がして、布団の中に小さな明かりが灯る。


「懐中電灯わかる?」


「わかるよぉ」


「クッキー持って来た。お腹すいたろ?」


兄が紙の包みを広げると、色とりどりのアイシングで飾られたクッキーが現れた。


「わぁ。たべていい?」


「うん。全部食べていいよ」



あのおじさんに口を塞がれた時の変な臭いがずっとこびりついていて、夕飯を口にすることが出来なかった。

ご飯を食べられないでいることを、パパとママには「眠い」と言って胡麻化した。

でも実際は空腹で、おまけに雨の音とサイレンの音で眠れないでいた。



クッキーの粉をシーツに落とさないよう、気を付けながら口の中に入れる私に、兄が話しかけてきた。


「まだ怖い?」


頷いた。


「一緒にいてやる」


「うん」


兄はこの家で最初から優しかった。

もちろんパパもママも優しかったけれど、それとはどこか違っていた。


わたしがクッキーを食べている間、覗き込むようにずっと顔を見られていた。

でも全然、嫌な気はしなかった。


最後の1枚になるまで自分が食べてしまったところで、兄の方を向いた。

「全部食べていい」と言われたけれど、これが兄のために用意されたものだとようやく思い出した。


「これ、おにぃちゃんの……」


「優海禾にあげたんだからいいんだよ」


「あーんして」


兄が笑いながら口を開けたので、最後の1枚を口に突っ込んだ。


「ひゃんと持ってろほ。れんぶいちろにつっこふなよ」


何を言ってるのかわからなくて笑った。

兄はクッキーを食べ終わると、怒ったふうでもなく言った。


「しりとりしよう」


「いいよ」


「お月様」


「まあるい」


「犬」


「ぬ? ぬ……ぬ……」


「優海禾が今日ずっと見てたやつ」


「ぬいぐるみ」


「かわいかった?」


黙って頷いた。


「欲しかった?」


もう一度頷いた。

でも、あのおじさんに買ってもらうのは嫌だった。


「ミサンガ」


「それなに?」


「手首にするやつで、切れたら願いが叶うんだって」


「しらない。が……が……」


「『か』でもいいよ」


「かいじゅう」


「海」


「うみ、いったことない」


「いつか、連れてってやるよ」


「ほんとう?」


「約束」


「やくそく」


お互いの小指を絡ませ、顔を見合わせて笑った。


「いつか」がいつのことかわからなくて、海なんだからきっと夏に行くものだと思い、夏が来るのが待ち遠しかった。




他にもたくさん約束をした。

それらは、守られたものと、守られないままでいるものと、数え切れないくらいあった。




どうして雨の降る夜にサイレンが鳴ると怖いのか、ずっとわからないままでいた。



私には、4歳より前の記憶がない。



だからなのかもしれない。

兄と会ってからのことは、いつまでも色褪せることなく、鮮明な記憶として刻み込まれている。

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