第2話 祭りの日

その日、村は年に一度の大祭で賑わいを見せていた。


通りは色とりどりの灯籠で飾られ、揺れる光が夜の闇を彩っている。


村の人々は笑顔であふれ、大人たちは酒を酌み交わしながら祭の喜びを分かち合っていた。


紅羽は、その喧騒を背にしながら、急ぎ足で天穹院の屋敷へと向かっていた。


天穹院の屋敷は村の歴史を象徴するかのような古い建物である。


その中では、紅羽の母が長い間病に伏せていた。


薄青い顔で布団に横たわる母が部屋へ入ってきた紅羽に気づき、微かに微笑んだ。


「紅羽、祭に行ってきてもいいのよ。こんなところに閉じこもっていたら、楽しい時間を逃してしまうわ。」


母の声は弱々しかったが、その瞳は優しく、紅羽を気遣っていることが伝わった。


しかし紅羽は首を横に振った。


祭の喧騒が窓越しに微かに聞こえてきても、彼女は自分を奮い立たせるように静かに唇を結んでいた。


「紅羽。」


母は少し強い口調で言った。


「今日はお父さんが側にいてくれるから大丈夫。お祭りは年に一度のものよ、あなたも楽しむべきだわ。」


紅羽の視線が揺れた。


「お母さんがそう言うなら……」


「朱鷺も連れて行ってらっしゃい。」


母の言葉に背中を押されるように、紅羽はゆっくりと立ち上がった。




彼女は机の上に置かれていた赤い紐で編まれた髪飾りを手に取った。


それは母が健康だった頃、紅羽のために作ってくれた大切なものだった。


髪に結び直しながら、彼女は母の額にそっと手を触れた。


その肌は少し冷たかったが、母の穏やかな微笑みが、紅羽を少し安心させた。


「行ってきます。」


紅羽がそう言うと、母は柔らかい声で「行ってらっしゃい」と返した。


その言葉に背中を押されるように、紅羽は部屋を後にした。


外に出ると、夜風が頬を撫で、少し冷たくなり始めた秋の空気を感じた。


紅羽は朱鷺と共に祭りの方角へと足を向けたが、その胸の中には母への思いが消えることなく灯り続けていた。


灯籠の光と人々の笑顔に迎えられながら、二人は次第に足を速め、大祭の喧騒へと紛れ込んでいった。


祭りの賑わいの中、紅羽は胸の奥で消えない不安を感じていた。


提灯の明かりがゆらゆらと揺れるのを見上げながら、彼女は無意識に足を止める。


いつも穏やかな竹林で感じる微かな妖気が、どこかざわついている――まるで何かが不気味にうごめいているような感覚が、彼女を苛んでいた。


「紅羽様、どうかされましたか?」


朱鷺の小さな声がその思考を遮る。


朱鷺は不安そうに紅羽を見ていた。


その目の奥には、幼さに似合わない怯えの色が潜んでいる。


「なんでもないよ。」


紅羽は柔らかな笑みを浮かべ、朱鷺の頭を撫でた。


「きっと気のせいだよ。今日は楽しまないとね。」


朱鷺はこくりと頷いたが、その表情には晴れない影が残っている。


それでも紅羽は、目の前の賑やかな光景を見つめ、わずかに気持ちを奮い立たせた。


だが、その胸騒ぎが現実のものとなるのに、そう時間はかからなかった。



夜の神殿は、提灯の光で赤々と照らされていた。


人々は境内に集まり、巫女・翠蓮が厳かに儀式を執り行う姿を静かに見守っている。


鈴の音と低い祈祷の声が響く中、祭りの喧騒が少しずつ遠のいていくようだった。


紅羽は静かに儀式を見つめていた。


彼女の耳には、鈴の音の合間に微かな音が紛れ込んでいる気がした。


それはどこか遠くで何かが軋むような、不快な音だった。


「…?あれ…?」


突然、空気が変わった。鈴の音が途切れ、周囲にひんやりとした冷気が漂う。


風がさっと境内を抜け、提灯の火がかすかに揺れた。


「……な、なんだ?」


村人たちがざわめき始めた。


誰かが低く呟いた声をきっかけに、神殿の奥からごうごうと不気味な音が響いてくる。


音は徐々に大きくなり、まるで何かが奥深くから這い出してくるようだった。


突如、黒い影が神殿の奥から溢れ出た。


まるで濃密な闇が滲み出したかのように、影はゆっくりと広がりながら境内を侵食していく。


その瞬間、激しい風が吹き荒れ、提灯の火が次々に消えていった。


「きゃあっ…!」


人々の悲鳴が夜の闇にこだまする。


闇の中から、不気味な咆哮が響き渡った。


それは低く、耳をつんざくような音で、まるで獣の咆哮と嘆きの声が混ざり合ったようだった。


人々は恐怖に駆られ、我先にと逃げ出していく。


「妖怪だ……!」


誰かが叫ぶ。その言葉が合図のように、人々はさらに混乱し、足をもつれさせながら散り散りに走り去った。



紅羽は息を飲みながらその場に立ち尽くしていた。


闇の中で無数の目が光り、巨大な影が神殿から伸び、村全体を覆おうとしている。


闇の中には動くものの輪郭がぼんやりと見え、それが何なのかを知る前に、本能が危険を告げていた。


「紅羽様、危ない!」


朱鷺が彼女の腕を掴んで走り出した。しかし、人混みの中、その手はすぐに離れ離れになってしまう。


「朱鷺!」


混乱に満ちた人の波が紅羽と朱鷺の間を切り裂くように入り込んだ。


紅羽は人の壁を押しのけるようにして辺りを見回したが、朱鷺の姿はどこにも見当たらない。


目の前を行き交う人々の悲鳴が、紅羽の恐怖を煽るようだった。

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