第1話 紅羽と朱鷺

朝の竹林は、風がそよぐたびに小さな葉擦れの音を立てた。


薬草や果物を収めた編み籠を背負い、紅羽はゆっくりと歩いていく。


ひんやりとした朝の空気を吸い込むたび、心が清らかになるような気がした。


「紅羽様、待ってください!」


後ろから小さな声が聞こえてきた。振り返ると、朱鷺が懸命に追いかけてくる。


朱鷺は妖怪だ。しかし、その姿は小さな少女にしか見えない。


その姿は可愛らしく、村でもちょっとした話題になるほどだ。


「ごめんね、朱鷺。急いでたわけじゃないんだよ。」


紅羽は立ち止まり、笑みを浮かべて朱鷺を待った。


「今日はゆっくり行こう。大事な用事ってわけじゃないから。」


朱鷺の真剣そうな顔に紅羽は小さく笑った。




紅羽が竹林を抜けると、眼前に広がる村は平穏そのものだった。


田んぼの水面が朝日を反射し、農夫たちが働く姿が見える。


村人たちが親しげに声を掛けてくると、紅羽は軽く頭を下げて答えた。


「紅羽様、また妖怪の面倒を見て下さるんですか?」


「ああ、今日も少しだけね。」


天穹院家は、かつて強大な力を持つ妖怪を封じることで村を守り、深く敬われていた。


しかし、その力は世代を重ねるごとに薄れ、今では「形だけの名家」と囁かれるほどだった。


紅羽は、そんな天穹院家の末裔だった。


力は先祖ほど強くはないが、村人たちの平穏を守るため、できることを全力でこなしてきた。


妖怪たちと話し合い、時には彼らを助けることで、天穹院家の誇りを絶やさないよう努力している。


「天穹院の名が泣いている」と陰口を叩く者もいたが、紅羽は気にも留めない。


それよりも、目の前の村の平穏を保つことが彼女の務めだと感じていた。



紅羽は朱鷺と二人で歩きながら田畑の先に見える岩場を眺めた。


そこには、石妖という小さな妖怪たちが住んでいる。


彼らは人の畑を荒らすのが好きだった。


それ自体は小さなイタズラでしかなかったが、何度も積み重なって村人たちを困らせているようだった。

岩場には大小さまざまな石妖たちが跳ね回っていた。


それぞれが意思を持つかのように動き回り、畑の境目を荒らしている。


畑を守るために積み上げられた石垣は既に半分ほど崩れ落ち、泥が露わになっていた。


「石妖たち!」


紅羽の声が岩場に響いた。声に驚いたように、周囲の空気がぴんと張り詰める。


紅羽は深く息をつき、そっと籠を地面に置いた。ぐっと目を細め、石妖たちを見据える。


「前に私と村人が言ったことを忘れたの?」


その声には、強い意思と優しさが混じり合っていた。


石妖たちは次々に動きを止めた。


しばしの沈黙が流れた後、小さな石妖がゴロリと音を立てて動き出す。


それに釣られるように、他の石妖たちもゆっくりと動き始めたが、その動きは明らかに遠慮がちだった。


「お供物をもらう代わりに、もう悪さはしないと約束したでしょう。」


紅羽は静かに語りかけるように続けた。


石妖たちは彼女の言葉を聞いて、その場にしばらく留まっていたが、やがて一つまた一つと、岩場の奥へと引っ込んでいった。


「まったく、しょうがないんだから。」


紅羽は肩の力を抜くと、岩場の奥を覗き込んだ。


薄暗い岩場の奥には静けさが戻り、石妖たちは物陰に隠れている。


「今日はこれで我慢してね。」


紅羽は籠から鮮やかな果物を取り出し、それをそっと岩場の入口に置いた。


すかさず後ろから朱鷺が駆け寄り、その果物をにこにこしながら眺めた。


「さすが紅羽様です!」


紅羽は照れくさそうに笑いながら、朱鷺の頭を優しく撫でた。


「そんな大したことはしてないよ。ただ、村が平穏でいられればそれでいいんだ。」



帰り道、竹林の中を歩く二人の足音が静かに響いていた。


竹の葉が軽やかに揺れ、地面には揺れる影が細かな模様を描いている。


「紅羽様……」


小さな声で名前を呼ばれた紅羽は、ふと足を止めて朱鷺の顔を見た。


「どうしたの?」


朱鷺は一瞬戸惑ったが、意を決したように口を開いた。


「どうして、そこまで妖怪を助けるんですか? 人間の皆さんには、妖怪を嫌う人も多いのに……。」


その問いに、紅羽は少し驚いたように目を丸くした。


しかしすぐに柔らかい笑みを浮かべ、少しだけ視線を遠くに投げる。


「私たち天穹院は、ただ妖怪を封じるだけの家ではなかったんだよ。」


紅羽はその場に立ち止まり、揺れる竹の影を見つめた。


「昔の記録には、妖怪たちと話し合い、時には助け合って暮らしていたことが書かれている。それが私たちの誇りだったんだ。」


紅羽の声には、誇りと同時に、どこか物悲しさを感じさせた。


朱鷺は紅羽の言葉にじっと耳を傾けていたが、やがて瞳が潤んでくるのを感じた。


彼女は小さな手で目元を軽くこすりながら言った。


「そんな……それって、私と紅羽様みたいな関係だったんですか?」


朱鷺の言葉に、紅羽は少しだけ驚き、そして優しく微笑んだ。


「そうだね。きっとそうだったんだと思う。もちろん、今ではそんな関係は珍しいのかもしれないけど。」


紅羽の声に宿るのは、ほんの少しの寂しさだった。


朱鷺はそれを感じ取り、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。


自分が妖怪でありながら、こうして人間の紅羽と一緒にいることの奇跡を改めて思い知ったのだ。


「でも私は、妖怪も人も、平和に暮らせるのが一番だと思う。それを守るのが、私の務めなんだ。」


紅羽は再び歩き始めながら続けた。


その言葉には、朱鷺も感化されるほどの静かな決意がこもっていた。


まるで彼女自身が信じる未来を見つめているようだった。


朱鷺はしばらく黙ってその背中を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


そして紅羽に追いつこうと、小さな足を少しだけ早めた。


「紅羽様、私も、紅羽様みたいになりたいです。」


その言葉に、紅羽は優しく微笑んだ。


「朱鷺は朱鷺のままでいい。それで十分だよ。」


その言葉は優しさに満ちていて、朱鷺の胸にじんわりと温かさが広がった。


彼女にとって紅羽は、ただの「憧れ」ではなく、心から自分の身を預けられる存在だった。


そしてその信頼が、永遠に続けばいいと、朱鷺は幼い心で強く願った。

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