6.夢に弾かれて
今宵もリリは夢を渡る。
夢までの道筋はラヴィルのネムリヨクナールがやっぱり必要だが、夢の主――フロリまでの道筋は覚えている。
「こっちだよ」
コシュールを伴い、リリは歩を進める。彼女に並びながら、コシュールは辺りへ視線を走らせる。
「昨夜程じゃねぇけど、また霧が濃くなってんな」
数歩先は闇。とまではいかないが、先を見通せるまでには程遠い。
コシュールは行先を阻む霧を切り裂くべく、爪が鋭く伸びる――が、それをリリが遮った。
「リリ……?」
コシュールがちらりとリリを見やると、リリもコシュールを見上げていた。
「借りていい?」
小さく問うリリに、彼女の意図を察したコシュールは一つ頷く。彼女へ譲る形で一歩下がった。
リリが瞑目する。瞬、ふわりと彼女の髪が舞い上がった。まぶたが持ち上がり、彼女の紅色の瞳が薄ら覗く。
「ヒツジさん、“夢治し”貸してもらうね」
すっと片手を持ち上げ、コシュールの方へと差し向ける。
「貸すも何も、もとはお前の
差し向けられたリリの手にコシュールの手が重なった。
一瞬だけ紅の燐光が散ったかと思えば、リリの紅の瞳が淡く光を帯びた。リリが一歩踏み出す。
刹那。ぶわっと不可視の何かが風となって迸り、ぱりぱりという音と共に霧が霧散した。
先を見通すには程遠かった視界が晴れ、遠くにぽつりと何かが視認出来るまでになる。遠くに見えるそれは、人影だ。
浮き上がっていた髪が落ち着き、常の状態に戻った瞳でリリがコシュールを振り返る。
「これで一直線!」
えっへん、と胸を張るリリに、コシュールは苦笑して肩をすくめた。
「本家には、やっぱ敵わねぇな」
媒体を介さなければコシュールは扱えない
その差に、コシュールはいつも感服の意で肩をすくめるのだ。
*
夢の主――フロリは、今夜も膝を抱えて蹲っていた。
顔を伏せて膝に埋めていたのを、リリ達の訪れに気付いて顔を上げる。
「……あれ、あなた」
「うん。こんばんは」
折った膝を底に付けて目線を合わせたリリは、昨夜と同じ元気な笑みをフロリへ向けた。
それから、ふんわりと柔らかなそれに変えて問いかける。
「今夜も寒い?」
リリの問いにフロリはゆっくりと瞳を瞬かせ、それから浅く頷く。
「……そうね、寒いわ」
きゅっ、と。フロリは膝を抱える腕に力を込める。
そんなフロリの前へマグカップが差し出され、彼女はぱちくりと瞳を瞬かせた。
ゆっくりと顔を上げ、にっと口の端を持ち上げて笑うリリと目が合う。
マグカップから湯気が立ち上る。
あたたかな気配に、ふわりと広がる甘くて優しいミルクの匂い。
リリは「どうぞ」と、マグカップを示すようにもう一度フロリへ差し出した。
「あったまるよ?」
フロリがおずおずと手を伸ばす。リリはその手に掴ませるようにしてマグカップを手渡し、満足げな息をもらす。
しかし、対するフロリはマグカップを受け取ったまま、その手元へ視線を落とすだけ。ぼんやりと立ち上る湯気を眺めやる。
「フロリさん、飲まないの?」
リリが首を傾げる。
昨夜のフロリはこれで表情を柔らかくしてくれた。
なのに、今夜のフロリは口を付けることすらしてくれない。その理由がリリにはわからなかった。
ややして、フロリがゆっくりと口を開いた。
「……今はいらない、かな。ごめんなさい」
「えっ! どーして?」
驚いて声を上げるリリに、フロア困ったように笑った。
「気分じゃないの」
「……飲みたくない気分ってこと?」
「……うん。そうね」
「昨夜は飲んでくれたのに?」
問いに問いを重ねるリリに、フロリは心底困った様子で目尻を下げる。
ぱり、と。フロリから小さな音が漏れた気がした。
それまで、黙って静かに二人の様子を見守っていたコシュールが、紅の瞳に少しだけ険をはらませる。
フロリが目を伏せた。
「――……しいもの」
ぽそりと何事かを呟いたフロリ。リリには言葉として聞き取れなかった。
ぱり、ぱり、と。音が漏れる。今度はきちんと聴こえた。
「フロリさん、なんて言ったの?」
リリが聞き返すけれども、彼女の声はフロリには届かなかった。
「――一人じゃ、さみしいもの」
「え……?」
ぱりぱり、と。はっきりとした音が聴こえた。
フロリがきゅっと眉間にしわを寄せる。どこか苦しげで。どこか悲しげで。
そこでリリは、何かを間違えたんだと思った。直感だ。
フロリの瞳が揺れる。と同時に、リリは強い力で後ろへ引っ張れた。襟首を掴まれたのだと、首を絞められたような苦しさで気付く。
――瞬、ぶわりと大きく広がった。ばちばちばち、と耳障りな音が耳元で鳴る。
コシュールの後ろへと引き倒され、そこでようやく息が吸えた。
けほけほと咳き込み、顔を上げる。そこで状況を把握した。
コシュールの背に庇わている。一気に膨れ上がった霧――夢の素。それも、陰の気を強くはらんだそれ。
コシュールは、“夢治し”の力をまとわせた長い爪を眼前で構え、さながら盾のようにして耐えていた。
けれども、完全に防ぎ切ることは出来ておらず、手に頬にと裂傷をつくっていく。
リリはコシュールの背から出ることも敵わず、フロリの名を叫ぶ。
「フロリさんっ!!」
それを最後に、夢から弾かれた。
◇ ◆ ◇
リリを腕に抱くコシュールが静かに降り立つ。
降り立ったのは寝室。未だ夜の気配が満ちる部屋に、ラヴィルの穏やかな寝息が響く。
コシュールの腕に抱かれたまま、リリは彼の頬に指を滑らせた。
傷口から滴る赤はあたたかく、ぬめりを含んでリリの指に絡みつく。
「……ごめん。リリが何かを間違えたみたい」
気落ちして視線を落しかけるも、最後のフロリの言葉を思い出して、ふるりと緩く首を振った。
「ううん、そうじゃない。リリは勘違いしてたんだ」
口を引き結び、コシュールの顔を見上げる。
「――ごめん。ヒツジさんにまた、痛い思いさせちゃった」
もう一度強く謝って、リリはコシュールの腕から降りた。
コシュールは膝を曲げて屈み、リリと目線を合わせてくしゃりとその頭を撫でる。
「勘違いしてたことに、まずは気付けたんだ。お前はそれでいい」
それでも口を引き結んだままのリリに、コシュールは苦笑した。
「前よりは深いものを負う機会も少なくなってきてる。今夜のだって傷口は浅い、軽いもんだ。――お前は成長してるよ」
コシュールが両手でリリの頭をくしゃくしゃに撫で回す。リリは顔を俯かせてされるがまま。
「それに、俺はそこらの魔族よりも
口の端を持ち上げてにやりと笑うコシュールに、リリは口を引き結んだまま。それでも、ぽそりと言葉を落とした。
「……うん。ありがと」
「おぅよ」
リリの言葉をしっかりと受け止め、コシュールは柔く笑った。
それからややして、騒がしさからラヴィルが目を覚ます。
寝ぼけ眼で起きた彼が、手を赤で汚したリリを視界に認めるなり悲鳴を上げたのは、また別の話だ。
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