5.人と精霊と魔族
部屋が橙に染まる頃にリリは目を覚ました。
カーテンを透かして差し込む橙の眩しさに、思わず目をぎゅっとつむる。
「……うぅー」
ごろんと寝返りを打って、のっそりと身を起こした。
「寝すぎたぁ……」
とろんとした目をこすり、ぱちっと両の頬を叩いて活を入れる。
今はリリのベッド代わりになっているソファを下りた。
立ち上がった際に、昨夜の夢渡りで負った足の怪我を見やる。
ラヴィルに丁寧に当てられたガーゼ。そこに塗られた塗り薬は、ラヴィルが自ら採取してくれた薬草だ。そこに少しだけ
人とは少し身体のつくりが違うらしい精霊に、彼は精霊にも作用する薬草を本を調べ上げ、そしてわざわざ、遠い生息地まで足を運んで採取してきてくれた。
そこに何の手を加えたのかはわからないが、別段おかしな気配はしないし、何よりラヴィルがリリに害を与えるとも思っていない。
それほどにリリはラヴィルへ心を傾けている。
ネムリヨクナールだってそうだ。精霊にも作用する薬草は、人の世ではなかなか手に入れづらいものだと聞いた。
なのに、その薬草を見つける手腕、調合する腕から、ラヴィルが相当な薬師だということは、精霊であるリリにもわかる。
リリに手間をかけてくれるラヴィル。その想いに触れられた気がして、なんだかこそばゆかった。心がぽわぽわする気持ちは、何かを埋めてくれたような感覚がして、よくはわからないけれども、リリはその心地よさに顔を綻ばせた。
ソファに腰掛け、当てられたガーゼをそっと剥がす。傷はもう綺麗に癒えていた。
ラヴィルが調合してくれた薬の効能と、消耗箇所を回復するための眠りに時間を費やしたおかげだ。
だが、あれくらいの怪我でここまで眠るはめになるとは、まだまだリリは精霊としても未生熟だということだ。
はあ、と大きな息を落として、リリは立ち上がった。
*
寝室からそのままダイニングへと通づる扉の隙間、そこからもれた明かりが部屋の床に筋をつくっている。
もうダイニングに人が居るのか。誰だろうと思うまでもなく、その誰かはラヴィルなのだろうが。
「……もう、お仕事終わったのかな?」
薬屋を閉めるにしては、少しだけ早い時間帯な気がするのだけれども。
リリは小首を傾げながら、ダイニングへと通づる扉のノブをひねる。ダイニングにはやはりというべきか、ラヴィルの姿があった。
ちろちろと揺れるランプの明かりが、ラヴィルの眼鏡縁を橙に染める。彼は席について何か作業をしている様子で、起きてきたリリに気付くと顔を上げた。
「おや。疲れはとれましたか?」
「うん、怪我もばっちり! ラヴィのおかげだよ」
ありがと、と礼を口にしながら、リリはラヴィルへ問いを投げる。
「ねえ、ラヴィ。今日はお仕事終わるの少し早くない?」
首を傾げるリリに、ラヴィルはどこか呆れたような、もはや諦めたような息を一つ落として、視線を手元へ落とした。
不思議に思いながらも、リリはラヴィルの隣へ回り込み、彼の手元を覗き込んでみて――悲鳴を上げた。
「うわぁあっ! ヒツジさん!? ――って、何回目……?」
悲鳴を上げたのは反射だ。
仕方ないではないか。だって、リリにとってヒツジさんこと羊のぬいぐるみは、お気に入りのぬいぐるみなのだ。
その手足が取れていては、悲鳴も上げるというもので。
けれども、立ち直るのが早いのもまた、仕方ないだろう。だって、この姿を見るのも一度や二度ではないのだから。
ラヴィルが嘆息混じりに答える。
「……何回目でしょうね? 私はもう、数えるのも面倒なので数えてませんよ」
しゃき、と小気味よい小さな音が響く。
ちょうど縫い終わったところだったらしい。ラヴィルが糸を糸切ばさみで切ると、縫い針を針山に戻した。
そして、残るパーツを手に取りながら、少しだけ仄暗いそれで笑う。
「あと一本ですね。この際、気分を変えるために頭に縫い付けますか」
「……やめろや」
最後のパーツをぬいぐるみの頭に当てると、そのぬいぐるみが身をよじって拒否を示した。
「何かと不便じゃねえか」
「えぇ? こうしてあなたを縫うために、早めに店を閉めることになった私へ言うことがそれですかぁ?」
パーツの中綿を詰め直しながら、ラヴィルは笑みを深める。ぬいぐるみがこころなしか震えた気がしたのは、リリの錯覚だろうか。
縫い針に新たな糸が通される。ラヴィルがパーツを手にして――。
「ラ、ラヴィ! ヒツジさんの頭に足があるとね、リリが頬ずりしたときに、その、ちょっとじゃまになっちゃうかなぁって……思っちゃうんだけど……」
リリは咄嗟に声を上げる。おそるおそるラヴィルの顔を覗き込むと、ぱちりと瞬いた彼の若葉色の瞳と合った。
「そうですか?」
「うんっ! そうっ!」
全力でリリが頷けば、ラヴィルは「仕方ないですねぇ」とため息を一つつく。
手にしたパーツを当てる箇所は、欠損した手足の部分。ちくちくと針を刺し始めた。
その様子にリリが安堵の息をつくと、ぬいぐるみからも安堵する息が聴こえた気がした。
「――ところで、リリに訊きたいことがあるのですが」
ちくちくと針を刺すラヴィルが、視線は手元に落としたままで訊ねてきた。
ラヴィルの対面の席に座り直したリリは「なぁに?」と言葉の続きを待つ。
「リリは親元を離れて、さみしいと感じることはないのですか?」
ラヴィルが顔を上げた。
リリは彼の若草色の瞳を見つめ、ぱちくりと紅の瞳を瞬かせた。こてん、と首を傾げる。
「おや、もと……?」
しばらく記憶を手繰り、ああ、と思い出す。
「お母さんとお父さんのことだったっけ? りょーしん、とも言うんだよね」
「そうですね。親から離れて暮らすことを、親元を離れるといいます」
「へぇー、そうなんだ!」
また一つ、人の世界の言葉を知ったと笑うリリに、ラヴィルはなんとも言えぬ顔をした。
不思議に思ってリリが首を傾げると、ラヴィルがまた口を開く。
「それでリリは、さみしいと感じることはないのですか?」
先程と同じ問い。ラヴィルの瞳に心配げな色が滲んでいるのに気付いて、リリはさらに首を傾げた。
どうしてそんな顔をするのだろうか。
「さみしいって、なんで?」
心底不思議、という表情で訊き返すリリに、ラヴィルは言葉を詰まらせた。が、すぐに気持ちを切り替え、笑みを向ける。
「いいえ、リリが大丈夫ならばいいのです。リリの見た目程の人の子では、お母さんやお父さんを恋しがったりする子もいるので、リリは大丈夫かなと思っただけですから」
安心しました、と言うと、ラヴィルは再び視線を手元に落とし、作業を再開させる。
リリはまた心がぽわぽわする気持ちに顔を綻びせた。
ラヴィルはリリのことを想ってくれている。だから、心配をしたくれたのだ。
「ありがと、ラヴィ。でも、リリは大丈夫だよ! 精霊にお母さんはいないから」
ラヴィルの手が止まる。
「いない、というのは……? リリには、あなたを生んでくれた精霊がいるのでは――……もしや、精霊は精霊から生まれない……?」
勘違いをしていたのでは、と考え込み始めたラヴィルに、リリは慌てて首を左右に振った。
「ううんっ、そうだよっ! 精霊は精霊からうまれるよ! だから、リリにも母体になってくれた精霊はいるのっ!」
「母体……?」
「うん、そうっ! だから、リリにお母さんはいないの」
伝わったかな、と小首を傾げるリリに、ラヴィルは辛うじて小さく頷いた。
「そう、なんですね。わかりました」
小さく笑ったラヴィルに安堵して、リリはほっと緩く息を吐き出して席を立つ。
「リリ、お店のお掃除してくるね!」
「ああ、そうですね。頼んでもいいですか? 私も作業が終わったら手伝います」
「うん、まかせてっ」
自信満々に胸を張って見せ、リリは店内へと通じる廊下へぱたぱたと元気に駆けていく。
その背を見送り、ダイニングに静けさが戻ってきた頃、ラヴィルは小さな息を落とした。
「……彼女が人でないということを、今日は特に強く感じました」
ああ、なるほど。と納得してしまうほどに。
ヒツジ――コシュールが言っていた、さみしい、という感情に行き着くのか、という言葉。
その意味がようやっと、ラヴィルにも見えてきた気がした。
「精霊は人みたいに群れはつくらねぇからな」
手元のぬいぐるみが、そうぽつりと呟いた。
だが、ラヴィルにはその言葉も少しだけ遠い位置にあるように聞こえて、手元のこのぬいぐるみも、やはり人ではないのだなと一人静かに思うのだった。
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