4.感情の温度
膝を抱えた彼女は、顔も伏せて膝に埋めており、リリ達の存在にはまだ気付いていない。
確か彼女の名は――。
「……フロリさん、だっけ」
記憶をたどり、リリはぽつりと呟く。
薬屋に訪れた彼女がラヴィルへそう名乗るのを、リリは廊下の影から聞いていた。
彼女――フロリの側まで歩み、リリは膝を曲げて屈む。
「フロリさん、フロリさん」
呼びかけるもフロリからの応えはない。
代わりに聞こえるのは、ぼそぼそと何事かをもらす小さな声。だが、言葉までは聞き取れない。
けれども、その何事かをもらす声が、陰の気をはらむ霧――夢の素を呼び寄せているのは確かだった。
少しずつコシュールが切り裂いたはずの霧が、フロリからちろちろと漏れているのがわかる。否、夢の素を霧状のそれへと変質させているのだ。
身を起こし、どうしようかと腕を組む。と、コシュールがリリの隣に立った。
「周りの霧は片してきたぞ――って、増えてんじゃん」
新たにわいた霧に顔をしかめ、人差し指の爪先を伸ばして軽くちょん切る。すぐに霧散したそれにコシュールの瞳が瞬いた。
肌を撫でた残り香のような気配に、口が面白そうに弧を描いた。
「――ああ、なぁるほど。同族の仕業だなぁ、これ」
それでここまで濃ゆい霧に変質させられるわけか。
膝を抱えて蹲るフロリを見やり、合点がいく。
「俺の好みは陽の気だし、陰の気を好むやつのことは理解できねぇけど、これはやり過ぎ判定されるよな――夢渡りの精霊に」
そして、ふむと静観する構えをとって隣のリリを振り向く。
これについては夢渡りの精霊の領域であり、魔族であるコシュールの出る幕ではない。
コシュールが見守る中、リリは辺りを見渡す。
あちらこちらへ視線を走らせたところで、フロリの側にきらめきを見つけて目を留めた。
「まだ染まってない夢の素みっけ」
フロリの側に今度は膝を折ってしゃがみ、きらめきへ手を伸ばす。リリの指先がきらめきへ触れた。
ぱちりと紅の瞳を瞬かせると、一瞬だけ彼女の瞳が光を帯びる。
――と。リリの触れたきらめきが、瞬き一つの間に変容していた。質量を伴ったように、リリの両の手の中に収まる。
コシュールが上からそれを覗き込んだ。
「…………マグカッ、プ?」
頭上から落ちる戸惑いの声にリリは顔を上げた。その顔がにへぇと笑う。
「うん、ホットミルクだよ」
「……しかも、甘さのあるミルクの匂い」
「そう、ヒツジさんが淹れてくれたホットミルク。湯気もちゃんと立たせた、あったかぁーいホットミルクを“夢映し”の力で顕現させてみた」
「どーしてホットミルク」
得意げに笑うリリに、コシュールは不可解だと言わんばかりに眉を上げた。
「だって、寒いにはあったかぁーい、だもん」
リリはコシュールへ、にっと歯を見せて笑ったあと、フロリへと向き直って肩を揺する。
「――フロリさん」
精霊として声に込めて名を紡げば、夢においては確かなものとなる。
のろのろとフロリが顔を上げた。ぼんやりとした様子で数度瞳を瞬かせたのち、やがて焦点があったようにリリを見やる。
「……あれ、あなたは――」
「これ、あげる。あったまるよ」
口を開きかけたフロリの前に、リリは湯気立つマグカップを差し出した。
いや、差し出すというよりも、突き出すに近いなとコシュールは思った。それほどの勢いだった。
フロリはぱちぱちと瞳を瞬かせ、リリと目の前に突き出されたマグカップを見比べる。
状況が追いつかないのか、目を白黒させているようにも見えるその様子に、コシュールは難しい顔をした。けれども、手を出すことはしない。
「……あの、これ」
戸惑うフロリに、リリは元気な笑みを浮かべ、マグカップを彼女の手を取って持たせた。
「寒いの、嫌でしょ?」
「――さむい、のは……うん、いやよ」
フロリがマグカップを持ちながら、己を抱き寄せるように腕を回す。
マグカップから立ち上る湯気がくゆりと揺れた。
「だって、さむいと一人なんだって、自覚させられちゃうもの。何かぬくもりが欲しいって、思っちゃう……」
顔をうつむけるフロリの顔を、リリはそっと覗き込む。
「うん、わかるよ。寒いとあったかいの欲しくなっちゃうよね。だから、まずはこれ飲んであったまろ?」
優しい響きを持ったリリの声に、フロリはゆっくりと顔を上げた。リリがふんわりと笑う。
リリがフロリの手の中にあるものを示すと、彼女はマグカップへ視線を落とす。そして、ややして小さく笑った。
「……うん。そうね、そうするわ」
両の手で包むようにマグカップを持ち、ゆっくりと口を付ける。ほぉお、と。緩く息をついたフロリの顔は、柔らかいものになっていた。
◇ ◆ ◇
夜が明けた朝。コシュールの姿はダイニングにあった。
「――あれで陰の気が弱まって、目当てのやつが様子見に姿現してくれんのかぁ?」
足を組んでテーブルのふちに浅く座り、ついでに腕も組んで首を傾げて唸っている。
カーテンを透かす、柔い朝の日差しが眩しい。思わず目を細めようとして――自身が羊のぬいぐるみ姿のことを思い出した。
コシュールの傍にリリの姿はない。ゆえ、本来の姿が保てなく、ぬいぐるみの
「縫い目が引っ張られてますけど、取れても知りませんよ」
羊のぬいぐるみ――ヒツジが声の方へ振り向く。
首元が引っ張られ、きちっと軋むような感覚がした。
「そしたら縫ってくれ」
「またですか? 縫い直す頻度が多いような気もしますが」
「気のせいだろ」
寝室から出てきたラヴィルが、救急箱を棚に戻して椅子に座る。
かけていた眼鏡を外してテーブルへ置くと、ちらりとヒツジを見やり、小さくため息を落とした。
「もう少し、ぬいぐるみとしての自覚を持ってください」
「いや俺、ぬいぐるみじゃねぇからそんな自覚持てねぇよ」
ヒツジの顔が呆れた表情になった――気がした。ぬいぐるみゆえ、その表情の判別は難しい。
「――んで? リリは」
「ああ、彼女なら足の怪我の手当てを終えたら、そのまま寝てしまいましたよ。疲れていたのでしょう」
「んー、そぉか」
視線を落としてうつむくヒツジの表情が、どこか悩ましげに見えた。たぶん、悩ましげだ。
「何か問題でもあったんです?」
ラヴィルが疑問を口にすると、ヒツジはよいしょと立ち上がって彼の前に腰を下ろす。器用にあぐらをかいて。
「リリのやつ、わかってない感じがすんだよなぁ。いや、あれはわかってねぇな。話が噛み合ってるようで噛み合ってなかったし」
ヒツジは後ろに手を付き、天井を仰いだ。
途方に暮れたようにも見えるその姿に、本当に器用にぬいぐるみの身体を扱うなあと、ラヴィルは別の感想を抱く。が、慌てて頭を振って邪念を追い払う。
「……大丈夫そうなんです? 昨夜は対症療法をしたようなもので、根本的な解決には至っていないのでしょう?」
「あいつ次第だな。あの女の言う『寒い』を、ちゃんとリリのやつが解れば」
「ああ、彼女の言った『寒い匂い』のことですか」
「おぅよ。寒いを寒いって受け取ってる限りは、難しいかもなあ」
ヒツジが四肢を投げ出して後ろへ倒れ込んだ。ぼんやりと虚空を眺めやる。
「あの『寒い』は、温度変化の寒いじゃなくてよ、人恋しさからくる『さみしい』だと思うんだよねぇ、俺は」
その言葉を受け、ラヴィルはなるほどと頷いた。
「一人は寒い。寒いはさみしい――ですからね」
何やら実感の込められた重い響きに、ヒツジはむくりと身を起こす。
ラヴィルもそれに気付いたが、にこりと笑みを浮かべるだけだった。
話す気はないらしい。ヒツジは肩をすくめる。
「――とまぁ、そんなわけだ。たどり着けるんかねぇ、あいつは。精霊は『さみしい』からは、ちと遠い気もすんだよ、俺は」
どーしたもんか、と。ヒツジはリリの眠る寝室へと視線を投じた。ラヴィルも同じように視線を向ける。
外からは、ぴちちち、と朝を告げる鳥のさえずりが聴こえた。
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