3.夢渡り
とっ、と。コシュールは舞い降りた。
足元には確かな足場の感覚があるのに、その確かな足場を視認することはできない。
夢とは定型であって不定型。幾度も、それこそ数える切れぬほど夢には
「ラヴィルのやつに、ネムリヨクナールで夢に匂い付けを頼んだのはやっぱり正解だったな。感謝しねぇと」
ネムリヨクナール――夢に匂いを付ける効能を持った薬だ。それを一介の薬師が調合できるとも思えないが、そこを気にするのは些事であろう。
夢の匂いとはどんなものだろうかと思いながら、コシュールは試しにすんっと鼻を鳴らしてみる。だが、その夢の匂いとやらは感じ取れなかった。
「まあ、俺にゃわかんねぇか」と、軽く肩をすくめて、コシュールは腕に抱き上げていたリリを下ろす。
「――ま、おかげでリリの“夢渡り”で迷子になることもなくなったし、お前だけわかってればいいんだけどよ」
「リリ、“夢渡り”の力にも自信ついてきたもん!」
えへへぇ、と緩んだ笑みを浮かべるリリに、コシュールは彼女の頭へ手を乗せる。
「頼むな。夢に渡れず迷子になんのは、もと来た道へ戻るのも疲れる。俺が得意なのは
ぽんぽんと軽く頭をたたくコシュールに、リリは「まかせてっ!」と胸を張った。
すん、と鼻を鳴らす。
「……寒い匂い、こっちからする」
すんすんと鼻を鳴らしながら、リリはさらに歩を進める。
今回渡った夢は随分と薄暗い。手元は確認できるが、数歩先はまるで闇に覆われたようで、何があるかわからない。
けれども、夢の匂いがわかるリリにそんなことは問題にはならない。向かうべき先はわかるから。
「あ、こっちかも」
リリが足を踏み出す度、足元に広がる霧のようなものがぱりぱりと音を響かせる。
陰の気をはらんだその霧は刺々しく、ぱりぱりとそれを迸らせた。
また一歩踏み出す。その度に、ぱり、と音がまた一つ。
そこから走った衝撃が、リリの足首に赤を走らせた。けれども、彼女は足を止めない。
ややして、リリの目の前に大きく広がる霧が現れた。だが、匂いを追うのに夢中なリリは気付かない。
彼女がその霧に身体を突っ込む――前に、後ろから伸びた手が襟を掴んで引き寄せた。
ぐえっと潰れた声をもらしながら、リリが後ろを振り返る。
「ヒツジさん、くるし……」
「前見て歩けっつの」
コシュールの視線は前に向けられており、リリも前を向き直ったところで「うわっ」と声を上げる。
気付かなかったと声をもらすリリを、コシュールは呆れたような息をもらして後ろへ下がらせた。
コシュールが一歩前へ踏み出し、手をかざす。その指先――否、爪先が鋭く伸びた。
彼の紅の瞳がすっと光を帯びたかと思えば、不可視の何かを爪にまとわせ、一閃。霧が霧散する。
ふう、と軽く息を落としたのち、コシュールはリリを振り返った。
「お前はあれ、すぐには追っ払えねぇんだから気を付けろ」
少しだけ険はらむ目で見下ろせば、リリは不服そうに口を尖らせた。
「……でもそれ、“夢治し”の力は、もともとリリが
じとぉと下から
「さあさあ、先を急ごうぜ」
「話そらしたぁー」
「だからこうして、夢渡りの精霊であるお前につき合ってんだろ。これでも一応、
いくら身を護るためだったとしてもな。と呟くコシュールに、リリはちらりと彼の顔を見上げて、わざとらしく仕方ないなあと笑ってみせた。
「ヒツジさんと一緒は、いっつも楽しーからいいんだけどっ」
むふふとリリは笑う。コシュールはばつが悪そうに見やって、それから彼女の足首に走った赤に目を留めた。
「怪我してんじゃねぇか。夢を
実体。つまりは夢の中で負ったものが、そのまま現実でも反映されるということだ。
リリがぱちりと瞳を瞬かせる。そして、何が嬉しかったのか、えへへぇとだらしなくその顔を崩した。
「うん。気を付ける」
「……そーしてくれ。ラヴィルも心配する」
「あ、そだね。ラヴィ
むふふふふとさらに声をもらしたリリに、コシュールは苦みを含んだ顔をしてその頬を軽く引っ張る。
そして「さっさと行くぞ」と彼が歩む足を速めたから、リリは危うく転ぶところだった。
*
暗い視界の中。闇から滲み出るように行く手を遮る霧を、コシュールが“夢治し”の力を用いて爪で切り裂きながら進んでいた。
コシュールの後ろから、リリが進む方向を指し示す。
「――寒い匂い、強くなった」
誘導するため、コシュールの前へと進み出たリリの背に疑問が投げられた。
「なあ、その寒い匂いってどんなだ?」
「ん?」
振り返るリリに、コシュールは片眉を上げる。
「夢の匂いっつーのは、夢渡りの精霊しか嗅ぎ取れねぇのはわかってるけどよ、いまいちお前の感覚が想像できねぇわけよ」
「と、言われても……寒い匂いは寒い匂いだし」
腕を組んで考え込むリリだが、足の歩みは止めない。
その間にも、コシュールの伸びた爪先が行く先を切り裂いていく。
「……なんか、手応え強くなってきたな。霧、つーか、正確には
伸びたままの己の爪先を見下ろし、コシュールは不快げに眉を寄せる。
ぴりっと微かに何がが絡みついている。常に不快感を帯びる感覚が鬱陶しく振り払う。
濃くなってきたということは
夢の匂いを感じられないコシュールは、頼みであるリリを見やる。
けれども、当の彼女は腕を組んで考え込んだまま。深く考え込んでしまったのか、先程よりも首のひねりが大きく、もはや身体ごと傾いてしまっている。
話題選びを間違えたなと、コシュールは頬を掻いた。
「おい、リリ。夢の主は近いの――」
か。と言い切る前に、リリが「ん、これだっ!」と大きな声を上げた。勢いよく振り返ったリリは、ぱっと笑みを向ける。
「寒い匂いってね、こう、ぽつんとした感じで、何ががない……ううん、足りないような、何かが欲しいような、それで冷えちゃったような気がする、うん、そんな感じ……!」
伝わったかなと、期待滲む紅の瞳でコシュールを見上げるリリに、彼は思わず足を止めた。
「……そんで、満たされたいような、あたたかい何かが欲しい、みたいな――?」
思わず返すコシュールに、リリはぱぁあと瞳を輝かせた。
「さすが、ヒツジさんっ! ね、寒い匂いでしょ?」
くるんっと身体の向きを変えたリリは、るんるんとご機嫌に歩みを再開させる。
コシュールはその小さな背を見つめながら、嘆息混じりにぽつりと言葉を落とした。
「それは『寒い』じゃねぇような気がすんだがなぁ」
そう。リリはまだ
今回はちょっと苦戦するかもしれないなと思いながら、コシュールはリリを追いかけた。
「――あ、ヒツジさん」
リリの声にコシュールは足を止める。
彼女が呼び止めた理由は、説明されなくともコシュールにもわかった。
二人の視線の先、相変わらず数歩先は闇に覆われたように不確かな視界なのだが、
凝ってすら見えるそこに、リリは思わず鼻を抑えた。
「きついか?」
「ううん。匂いが強いだけ、大丈夫」
そう答えるリリだが、顔色が悪いようにも見えた。薄暗いせいだろうか。
コシュールの紅の瞳に心配する色を見たリリが、彼の服を掴んで精一杯に笑って見せる。
「本当に大丈夫だよ? リリにはヒツジさんがいるから。ヒツジさんが居てくれれば、そこはあったかくて、寒くないもん。――匂いには引きづられないよ」
コシュールは瞳を瞬かせ、自身の服を掴むリリの手を己の手で包んだ。
リリと目線を合わせるために膝を折ってしゃがむと、同じ瞳の色をした彼女の瞳を覗き込む。
リリとコシュール。紅の瞳と紅の瞳。互いに目を合わせ、重なるように目を閉じる。
「大丈夫だ。俺とリリは繋がってる。俺の瞳の色は、リリと繋がってる証拠だからな。――お前は、独りじゃない」
まぶたを持ち上げた時には、リリの頬にあたたかみが戻っていた。
「イケるな?」
「うん、大丈夫っ!」
今度は元気な声で、元気な笑顔で応えたリリに、コシュールは「うおしっ」と立ち上がる。
「まずはあれを切り裂く」
コシュールが手をかざし、その爪先が鋭く伸びた。
紅の瞳が光を帯び、爪が不可視の力をまとうと――彼は底を蹴りつけた。
コシュールの結われた黒の髪が軌跡を描くように揺れる。
一閃、二閃と爪を振るい、濃い霧を切り裂いていくと、その奥に見えたのは。
「あ、お姉さん――夢の主みっけ」
この夢を造り出した夢の主が、膝を抱えて蹲っている姿だった。
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