2.夢喰らいの魔族
「ありがとうございました」
店先でその日最後の客を見送ったラヴィルは、店の扉をくぐると、扉にさげているプレートを『CLOSE』にひっくり返す。しゃっ、とカーテンを引き、店を閉めた。
日は暮れており、暗い廊下をランタンの灯り片手に進む。廊下の先ではちろちろと揺れるランプの明かりが漏れていた。
「あ、ラヴィ! おつかれさま!」
部屋に踏み入ると、椅子に座っていたリリがぱっと笑顔を向ける。
廊下を進んだ先には、ダイニングとなっている部屋がある。ダイニングには小さなキッチンがあり、その奥に繋がる部屋はラヴィルの寝室だ。今はその部屋にリリも寝泊まりしている。
「って、人の世界では言うんだったよね?」
「ええ、大丈夫ですよ。リリも、お手伝いをおつかれさまでした」
ランタンをテーブルに置き、ラヴィルもリリの対面に座る。
リリは両の手でマグカップを持っていた。立ち上る湯気が、入れてそう経っていないことを告げる。
「ホットミルクですか?」
優しげなミルクの香りがその場にふわりと広がっている。
「うん、そう。あったかいよ。ラヴィも飲む?」
「まさか、リリがこれを?」
眼鏡の奥で、ラヴィルの若草色の瞳に険がはらむ――前に、リリは慌てて首を横に振った。
「ち、違うよぉ! リリにはまだダメってラヴィに言われたもんっ! リリじゃないよっ!」
「じゃあ、誰が――」
と言いかけたラヴィルの前に、ことりとマグカップが置かれる。
立ち上る湯気に、ふわりとミルクの優しい香りが広がり、ラヴィルの眼鏡を曇らせた。
「
眼鏡を外し、ラヴィルはマグカップを置いた人物を見やる。
見た目の歳の頃はラヴィルと然程変わりはないが、実際のところ幾つ歳を重ねているのかをラヴィルは知らない。
瞳はリリと同じ紅の瞳だが、髪は彼女に反して黒の色。高い位置で一つに結われた髪は、背に流すほどに長い。
そしてまた、自然と視線が向かってしまうのが、長い彼の耳と、口が開く度に見え隠れする鋭い犬歯。それを見る度、彼が人ではないのだと気付く。
その彼が、にやりとからかうように笑った。
「――なに俺に見惚れてんだよ」
「いえ、見惚れてはいません。観察をしていただけですよ。あ、ミルクはありがとうございます」
さっと視線を彼からを外すと、ラヴィルはマグカップを持って口に運ぶ――前に、テーブルに戻した。
彼がどかりと乱暴な動作でラヴィルの隣に座る。テーブルに肘を置き、頬杖をついて足を組む。
「俺、まだ見慣れねぇの?」
「行儀が悪いですよ。リリが真似をしてしまいます」
へいへい、と気のない返事をし、彼は座り直す。
「見慣れないと言えば、見慣れてはいないですね。なにせ、普段は
「……俺だって、好きで
またもや頬杖をつく彼に、ラヴィルがちらりと横目で睨む。
「――行儀が悪いですよ、
「この姿の時はそう呼ぶなっつってんだろ。俺は
きろっと睨み返すコシュールに、ラヴィルは意に介すことなくマグカップを口に運ぶ。
ミルクの優しい味わいに転がる甘さ。ほぉ、とラヴィルは緩い息を吐き出した。
「砂糖入りですか。いい具合の甘さですね」
「でしょっ! ヒツジさんのホットミルク、リリも好きなんだ!」
ずずっと音を立ててホットミルクを飲んでいたリリが、にぱぁとした笑みをラヴィルに向ける。
こんっ、と少し雑にマグカップを置くと、リリはコシュールへそれを突き出す。
「ヒツジさん、おかわりっ!」
「へいへい。あとな、今の俺はコシュールだ。それこそ何度言わせんだよ」
「ヒツジさんはヒツジさんだもん」
ヒツジさん。とは、リリのお気に入りであり、バッグに入れていつでもどこでも一緒の、あの羊のぬいぐるみだ。
どういうわけだが、あのぬいぐるみに封じられた存在がコシュールである。
だが、その経緯をラヴィルは知らない。ラヴィルがリリと出会った時から、コシュールはヒツジさんだったのだから。
普段は羊のぬいぐるみ姿で居るコシュールだが、それで動きに制限があるようには見えない。でも、リリの傍以外でコシュールとしての姿を見たことはない。そのあたりが制限なのだろうか。
まあ、ラヴィルはあまり気にしていないけれども。
「ほらよ、おかわり」
マグカップにホットミルクを注ぎ直したらしいコシュールが、リリの前へ静かにそれを置いた。
ありがとうと礼を口にするなり、リリはすぐにマグカップを口にする。
口周りに白ひげをつくる勢いで飲む姿にラヴィルは苦笑した。
「お腹を壊さないでくださいよ」
「リリは精霊だ。こんなんで壊さねぇよ」
自身もマグカップを手にしたコシュールがラヴィルの隣に座る。彼も自分で入れたホットミルクを口にする。
「んー、いい具合の甘さ。俺ってばデキルやつぅ」
「今でも意外に思いますね。あなたが料理方面にも明るいというのは」
「あ?」
椅子にやはり行儀悪く姿勢を崩して座るコシュールに、ラヴィルはため息を落としつつ言葉を続けた。
「あなたのような
「あー、まぁな、そーなんだけどよ」
コシュールはマグカップをテーブルに置くと、にやりと口の端を持ち上げて笑う。
「俺くらいになると、食物から十分賄えるのさ」
「ですが、ヒツジさんになった所以は夢喰らいにあると聞いたような?」
ラヴィルはホットミルクを口に含む。その隣では、コシュールが渋面になって唸っていた。
「あれはデザート感覚で喰ってた時に、こいつの母親に見つかっちまっただけでい」
こいつ、と顎でリリを指し示す。
口周りに白ひげをつくったまま、リリは「ん?」と顔を上げた。
「んー、ヒツジさんをヒツジさんにしたのは、リリの母体になった精霊だけどね」
ラヴィルはリリの、母体、という言い方に小さな違和を覚えたが、それよりも気になったのはリリの口周りだ。
懐からハンカチを取り出すと、リリの口周りを拭ってやる。
その間でもコシュールの言葉は続いた。
「そんでよぉ、楽しい夢見てるやつのとこにお邪魔して、ちょっと夢に干渉して、さらに楽しい夢見させてやって、そんでお礼に夢をすこぉーし喰わせてもらっただけなのにさ」
この通りよ、と。コシュールは肩をすくめて手を広げる。
それにむっとしたのはリリだ。だんっ、と二杯目も飲み干したマグカップをテーブルに叩きつけ、じとぉとコシュールを
「見習いだとしても、夢渡りの精霊としてこれは言わせてもらうけど、楽しい夢見たさに起きてこないのは、人としての日常が送れなくなっちゃうからダメなんだよっ!」
マグカップを叩きつけては割れてしまいます、とラヴィルは、リリの手からマグカップを抜き取った。そして、ついでに口を挟む。
「それはつまり、惰眠を貪り始めた、と。それは困りますね。いろいろと」
「でもよ、デザートは別腹だろ?」
「その別腹が過ぎたから、ヒツジさんになるはめになったのでは?」
にこりと笑みを向けるラヴィルに、コシュールは、うっ、と言葉を詰まらせた。
ぼそぼそと「だから咄嗟にリリを喰ったんだよ」とコシュールから物騒な言葉が聞こえたが、ラヴィルは聞かなかったことにした。
必要以上の干渉はしないに限る。とりあえず、自分のマグカップに残っていたミルクを飲み干す。
――と。リリが紅の瞳を瞬かせた。
「――あのお姉さん、ネムリヨクナールを飲んでくれたみたいだよ」
すんっ、と鼻を鳴らし、椅子から立ち上がる。
コシュールがリリへ視線を投げた。
「匂いは?」
「うん、わかる。追えるよ」
「そーかい」
コシュールが口の端を持ち上げる。彼の紅の瞳が愉しげな色を宿した。
「そんじゃ、今回は
マグカップをテーブルに置くと、コシュールも椅子から立ち上がった。
「あのお姉さんから寒い匂いがしたんだ。だから、リリの“夢映し”の力で楽しい夢をみせてあげたいっ!」
むんっ、と握りこぶしをつくって意気込みリリに、そういえばとラヴィルは思い出す。
「昼間にリリが『匂う』と言っていたのは、その匂いのことだったのですね」
「そうだよ。そこそこ強い匂いだったんだから」
「でも、だからといって近付いてしまうのは――」
「へいへい、お小言はそこまでにしとけって」
リリとラヴィルの間にコシュールが立つ。そして、リリを振り返る。
「リリ、行けるか?」
「行けるっ!」
びしっ、と元気に手を上げるリリに頷き、コシュールがラヴィルを見やった。
「――ってことで、俺らは一仕事行ってくんな」
コシュールの後ろで、リリが精霊の力を開放し始める。
リリからきらめきが溢れ、迸るその奔流が彼女の横髪をなびかせた。その中でリリがラヴィルに元気な笑顔を向ける。
「いってきますっ! ラヴィ」
コシュールが奔流の中へ一歩踏み出すと、きらめきが彼の背に流れた髪もなびかせる。
コシュールもラヴィルを振り返り、んじゃ、と口だけ動かした。
ラヴィルがリリとコシュールへ、いってらっしゃい、と口を開く間もなく、あっという間に、きらめきと共に彼女らの姿は掻き消えてしまった。
残されたのはラヴィルと、空になって冷えてしまった三つのマグカップ。
そこへ忍び寄るように夜の気配が部屋を満たす。
ゆらゆらと揺れる部屋のランプに、窓へと誘われて視線を投じれば、その向こうはもう夜だった。
一気に部屋の静けさが際立った気がした。先程までが賑やかだったということだ。
ラヴィルは一つ息を落とす。
「……まったく。また『いってらっしゃい』を言いそびれではありませんか」
苦笑。次もまたきっと、慌ただしくなって言いそびれるのだろう。
それが容易に想像できて、ラヴィルは一人小さく笑う。
「さて、何か軽く作って食べますか」
キッチンへ向かうため、ラヴィルは椅子から立ち上がった。
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