精霊は今宵も夢を渡る ―見習い精霊成長譚―
白浜ましろ
1.見習い精霊と薬師の青年
その子供以外には誰もいない一室。幼さを残す声が響いた。
「んー、どこだったかなぁ……?」
壁一面に棚が設えられた一室。たくさんの引き出しが並ぶ棚の前には、机上が散らかった作業机。
棚を見上げるリリは、小さな身体で一生懸命に首を仰け反らせ、とある物がしまわれているはずの引き出しを探す。
「えーと、ネムリヨクナールの
ぱっと顔を輝かせ、びしりと指で指し示した。
人の文字で『ネムリヨクナール調合済み』と書かれたラベルの引き出しを。
最近は人の文字も読めるようになったリリは、にんまりと笑った。勉強の成果が現れている。
弾むような足取りは、房のように長い横髪を跳ねさせる。横髪だけを伸ばしたリリの髪は白く、窓から差し込む日差しに柔く透ける。
よしっ、と気合一つ。壁に立てかけられた梯子に手を伸ばした。
小さな身体には大きすぎる梯子を引きずるようにして運ぶも、肩から斜めがけする大きなバッグが邪魔をする。
大きなバッグからは、リリお気に入りの羊のぬいぐるみが顔を出している。お気に入りゆえに、リリとこのぬいぐるみはいつも一緒だ。
それでも、今においてはバッグが鬱陶しい。可愛らしい顔に、きゅっと愛らしく眉間へしわを寄せる。
どうするか一瞬だけ考え、梯子を慎重に壁に立てかけ直した。そして、斜めからさげていたバッグを背に回す。
これで運びやすくなったはず。勢い込んで立てかけた梯子に手を伸ばす――が、梯子を掴んだ瞬間に身体の均衡を崩した。
そのまま梯子の重さに持ち堪えることも敵わず、派手な音を響かせて梯子事倒れ込む。
「……いたい」
だが、音のわりには尻もちだけで済んだリリは、口をむっと曲げて顔を上げた。けれども、自分が招いた惨状に身体が硬まる。
梯子を倒した際に引っ掛けたのだろう。棚とは反対側の壁に貼られていた紙らが剥がれていた。
いや、剥がれただけならばまだいい。中には破れてしまった紙片もある。
紙に綴られた文字は、まだ研究段階の組み合わせだなんだと聞いた覚えがある。
さあとリリは血の気が引いた。
「ど、どうしよう……ヒツジさん……」
情けない声で、すがるような視線で、リリはバッグに入った羊のぬいぐるみを見やる。
だが、ぬいぐるみが応えるわけもない。黒釦で縫い付けられたぬいぐるみの目が、ただ窓からの日差しを弾くだけだった。
リリが途方に暮れて紅の瞳を潤ませ始めた頃、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「今の音は何ですか!?」
部屋に飛び込んできた青年は、真っ先に目に入った惨状と、尻もちをついたままのリリを見やって、おおよその状況を把握する。
ふぅう、と重い息を落としつつ、軽く首を振る。さらさらと灰白色の髪が揺れた。
彼はずれた眼鏡を指で持ち上げると、リリの前で膝を折って目線を合わせた。
「怪我はありませんか?」
優しく紡がれた言葉に、リリは口を引き結んでゆっくりと頷く。
そうですか、と表情を和らげた彼は、リリの脇に手を差し入れると、彼女をゆっくりとその場に立ち上がらせる。
リリは顔をうつむけ、そっと顔色を伺うように上目で見やって小さく告げた。
「……ラヴィ、ごめんなさい」
すんっ、と鼻を鳴らしそうなくらいに揺れる紅の瞳に、ラヴィと呼ばれた青年――ラヴィルは、ぱちりと若草色の瞳を瞬かせたあと、柔らかく笑った。
「あとで、一緒にお片付けをしてくれますか?」
「……うん」
「なら、次から気を付けてくれればいいのですよ」
ラヴィルはリリの頭に手を乗せると、なぐさめるように優しく撫でる。
その際に、ラヴィルはちらりとリリのバッグへ視線を落とした。
リリは頭を撫でられた嬉しさで気付いてはいなかったが、ラヴィルの瞳に険がはらみ、軽く睨むように向けられていた。リリのバッグから顔を出す羊のぬいぐるみに。
が、刺々しい気配はすぐに霧散させ、ラヴィルは立ち上がる。
倒れた梯子や散らばった紙片を避けながら棚へ向かう。
棚の前の作業机に梯子が倒れなくてよかったと息を落とした。
作業机はお世辞にもきれいとは言えず、ラヴィルのある意味の商売道具が散らかっている。薬を煎じたり、調合する際の道具などが。
ここもあとでついでに片しておくか思いつつ、ラヴィルは引き出しへ手を伸ばす。
手を伸ばした先は、リリが先程探していた引き出し。
そこから梱包されたそれを取り出し、リリを振り返った。
「さあ、お客さんを持たせています。一緒に行きましょうか」
リリは不思議そうな顔で、こてりと首を傾げる。
ラヴィルが倒れた梯子をちらりと見、苦笑混じりに小さく笑う。
「――私を手伝おうとしてくれたのでしょう?」
彼女が手伝おうと考えて起こした行動だとすれば、この惨状にも頷ける。ほら、リリの顔がぱぁあと輝いた。
「うんっ!」
元気な返事。
ラヴィルが幾つかの梱包をリリへ差し出す。彼女は大切に、慎重に彼からそれを受け取る。
ふふふ、と相好を崩すリリを伴い、ラヴィルは部屋をあとにした。
*
作業部屋を出て廊下を抜ければ、店へは直接通じている。
店と言っても、店内はさほど広くはない。
小さな勘定カウンター、薬が並べられた棚の他には、症状を伺うための窓辺に配された小さな椅子とテーブルがあるだけ。
店内に広がる薬草の香りが、ここが『薬屋』なんだと伝える。
リリが廊下から姿を現すと、椅子に座って顔をうつむけていた女性が、はっとした様子で顔を上げた。
どこか慌てたその雰囲気に、リリは首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いえ、少しうとうととしてしまっただけよ」
淡く笑む女性の目元が、少しだけ血色が悪く見えた。
寝不足なのだろうか。そう思ったリリは女性へと近寄ると、すんっと鼻を鳴らす。
「――あ、匂う」
紅の瞳をすっと細めたリリが、さらに女性の匂いをよく嗅ごうと顔を寄せた時――くいっ、と襟元を引っ張られた。
ぐえっと潰れた声をもらし、引きづられるように女性から離される。襟元はすぐに開放された。
喉元をさすりながら涙目で後ろを振り返り、紅の瞳に非難めいた色が滲む。
「ラヴィ、ひどい」
「ひどくありません。むやみに匂いを嗅いではいけません、と前に言いませんでしたか」
眼鏡の奥で、ラヴィルの若草色の瞳に険がはらむのを見て、リリははっとして思い出す。途端にしょんもりと肩を落とした。
「……言われました。ごめんなさい」
「次からは気をつけましょう」
ラヴィルは軽くリリの頭に手を置き、すぐに女性の方へと向き直った。申し訳ありません、と頭を下げようとしたところに、女性が待ったをかける。
「少し驚いただけですから大丈夫です。もしかしたら……つけてきた香水が強かった、のかな」
そう言って苦笑する女性は、そういうことにしてくれようとしている。
ラヴィルは感謝を抱きつつ、会釈に留めて頭を下げた。
「――それでは改めて」
女性の正面に座ったラヴィルがリリを一瞥する。
そわそわとしていたリリは、ぴんっと背筋を伸ばして視線を受け取る。ずっと手に持っていた梱包を、緊張した手付きで机上に置いた。
女性の視線が机上に落ち、戸惑うようにラヴィルを見やる。
「あの、これは……?」
「ネムリヨクナールです」
きょとりと瞳を瞬かせる女性に、ラヴィルは改めて告げる。
「ネムリヨクナール。寝付きや夢見を良くする効果のある薬です」
「――名前がまんまじゃねぇかよ」
ラヴィルが硬まり、リリは慌ててバッグを後ろに回した。
突として割り込んできた声に、女性はきょろきょろと辺りを見回す。途中でリリと目が合うも、彼女にはただ笑って誤魔化された――ような気がした。
それからも少しだけ見回してみたが、この場にいる三人以外の姿はなかった。
「……あの、誰かの声が」
「――いえ、気のせいでしょう」
にこりと笑顔を浮かべたラヴィルに、女性はその圧に押し負けて黙る。
すっ、とラヴィルは机上の梱包を差し出した。
「こちら、その薬になります。毎晩、寝る前に服用されるのが、一番効果が期待できる飲み方になります」
困惑してラヴィルを見つめていた女性だったが、調子を崩さない彼に、やがて先程のは気のせいだったのだなと思い始める。
促されるように梱包へと目を向けて、それが数日分しかないことに気付く。
「これだけ、ですか……?」
もう少しいただけないだろうか。言外にそう訴える目で女性はラヴィルを見やる。
柔和な笑みを浮かべ、ラヴィルは一つ頷く。
「ええ。まずはお試しで」
「お試し、ですか……」
「はい、お試しです。もちろん、お試しですからお代はいりません」
どういたしますか、とラヴィルは小首を傾げた。
「お代については、次回ご来店された時分からお支払いいただければ構いません」
今度は面を食らった顔で女性は瞳を瞬かせた。いや、呆気にとられたというべきか。そして、やがて小さく吹き出して肩を震わす。
くすくすと控えめに笑う女性は、真っ直ぐにラヴィルを見る。
「自信があるんですね」
「ええ。当店の眠りに関する薬の中では、一番評判のいいものですから」
「その台詞は胡散臭そう――」
――ごほんっ。ラヴィルが強く咳き込み、割り込んできた声を遮った。
「おかしいですね。風邪をひいてしまったのでしょうか、喉の調子が」
ごほんっ、ごほっ、んんっ。と幾度か咳払いをしたのち、「失礼しました」と人好きな笑みを浮かべた。
女性もその頃になると、ある程度のことには慣れてしまったのか、「大丈夫ですか?」とラヴィルを気遣う余裕までできていたのだった。
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