第3話
全く、訳がわからない。
それが颯真の率直な感想である。
そう、颯真がここ数日任された仕事は、全く訳のわからない内容ばかりだった。一昨日は檻の中から『シェル』という颯真には一切聞こえもしない音を、渡されたレコーダーを使って拾い集めろというし、昨日に至っては『七色の空気の糸を紡げ』と命じられた。川上先生による説明もかなりおざなりなそれになり、颯真は外国人と話しているような気分でずっと不機嫌な顔をしていた。
もう一つ不可解な点がある。いや、一つどころでなく幾つも訳がわからないことはあり、上げてしまえばきりがない。とにかく、いつの間にか琢磨もこの仕事に参加していることに颯真はどことなく不満を覚えているのだ。颯真は川上先生から直接頼まれてここに連れてこられた。しかし、琢磨はどうだ。颯真の体臭を発端にここまでついて来ただけなのに、そのまま川上先生から指示を受けるようになってしまった。今ではスッカリと二人でコンビを組まされている。これまで全く話したことがなかったのに、どうしてこうなったのだろうか。
とはいえ、琢磨がいなければ川上先生が言うところの『飼育作業』はできていなかっただろう。なぜならば、琢磨は川上先生の指示をしっかりと受け入れて積極的に動いている。そこに何も疑問は生まれていないようだ。耳を澄ませてシェルを聞き分け、檻の隅々に走るシェルに向かってレコーダーをかざし回収し、夕闇に紛れ檻の中を踊るように漂う七色の空気の糸を難なく摘み上げ巻き取っていた。もちろん、それは颯真の目には全く映らなかった現象なのだが。そこだけ見れば、丸々とした体の琢磨が滑稽に檻の中で動き回っているようにしか見えなかった。他のクラスメイトが見ていれば、絶対に笑われ者でしかなかった。でも、川上先生は絶賛し、暇を持て余して見に来た浅間は琢磨の活躍を手を叩いて喜んでいた。そこにふざけた空気はなかった。二人とも真面目に琢磨を称賛し、颯真だけが何もできず檻の隅でしゃがんでいるしかなかった。そんな空気に、颯真は自分でもわからない状況下で憮然としてしまうのだ。気乗りしない上に、取り残された気がしてならない。みんな檻から出て、颯真だけが檻に残った時には、なんだかやるせない気持ちでいっぱいになった。
ただ、そんな時に限って颯真の足元は柔らかで温かみのある感触で包まれるのだ。見えない何かが颯真の心を癒そうと足元を駆け回っているように感じられる。颯真は、川上先生から受け取っていた真っ暗月の光に浸した水を足下にふりかけてやる。
パッと見では何か変化が起きたようには見えない。ただ、そうすることによって暖かな感触がより膨らんで颯真の気持ちを穏やかにさせてくれる。
放課後に二人がすっかりと飼育係の仕事をこなすのが当たり前になった頃、教室では新しい遊びが流行り出していた。
『影取り』だ。お互いの影を踏むか踏まれないように逃げる影踏みなら颯真もやったことがあるが、影取りは全く新しい遊びだった。学校中で起きる奇怪な出来事を逆に取り入れて楽しもうとした遊びである。
簡単に説明すれば、お互いの影を奪い合う遊びだ。
晴れた日の放課後、校庭に集まり自分の影をそれぞれの方法を持って召喚する。ジャンプして影を踏みつける者、懐中電灯の光を浴びせる者、呪文のような意味をなさない言葉を影に向かって囁く者。その方法は千差万別だ。
そして、呼び出した影を利用して、相手の影を地面から完全に引き剥がそうとするのが影取りである。引き剥がす際に、自身の影を相手の影に絡ませて、その際に影の主人が相手の影を吸い込めばいいのである。影を吸い取られた者はもちろん負けなのだが、それだけではない。影を吸い取られた者は、学校の中で日陰のような存在になるのだ。それこそ、表立って学校の中を歩くことが憚れた。そうしている内に気がつくと、颯真のクラスも半分以上が出席しなくなっていた。
颯真は徐々に人が減る教室の光景に不安を覚えていた。特に男子の出席数はあからさまにひどく落ち込み、15人いた中で颯真も含めてもはや六人しかいなかった。残ったのは、颯真と琢磨以外はみんな影取りの猛者たちだ。剣呑とした目つきが教室中を走り回っている。猛者たちは、次の獲物を探しているのだ。その様は、もはや獣そのもの。よく見れば、彼らの影そのものも授業中も威嚇するように教室中を蠢いている。気がついた時には、颯真の机周りに琢磨以外の影が旋回していたこともあった。まるで、鮫の海に取り残された小舟に乗った気分だった。
そんな光景を見て颯真は気がつく。ずっと影取りを無視して飼育係に専念したことで、自分がただのひ弱な小鳥になっていたことに。琢磨だってそうなのだが、琢磨は鈍感なのかわかっていて無視しているのか、影で煽られても全く気にするそぶりを見せていなかった。クラスで起きていることなどは全く興味ないのだろう。授業が終わると一目散に教室を飛び出して檻へと向かうのだ。檻のことしか頭にないのか。
気にしていないのは琢磨だけではない。川上先生だって、出席を取る際に明らかに減っていく教室の変異を何も気にかけることはないようだ。淡々と授業を進め、這い回る影たちにも咎めるどころか言及すらしない。いつだって、川上先生はそうだった。にこやかな笑顔を向けて生徒を幸せそうに見つめているが、授業以外は積極的な介入はしない。いつもあの細い指を、それこそ魔法の杖のように振り回してる。生徒を操っているつもりなのだろうか。それにしては、みんな川上先生を不気味がって近寄ろうとはしない。魔法を使っているのならば、人を寄せ付けないそれだろう。
こうなれば、教室の中で影に完全に怯えているのは、もはや颯真だけなのかもしれない。
「待てよ!」
授業が終わり、掃除の時間も終えた時、颯真は不意に声をかけられた。振り向くと鷹木翔がいた。ひどく燃えた目をしている。それほど暑くもないのに、額には汗が滲んでいた。暑苦しい男だ。颯真は、鷹木に話しかけられてやれやれと顔を顰める。
鷹木からは小学生らしいエネルギーと、計算も何もない猪突猛進な性格をガンガンに感じるのだ。いや、感じるどころかむしろ押し付けられているようで煩わしい。鷹木は体育の授業はいつも全力だった。手を抜くことなど知らないかのように、常に全力で走り、全力で飛び跳ねていた。聞くところによると、親がスポーツに真剣に打ち込んでいた影響が受け継がれているらしい。
その目つきは、影取りが流行る前から無駄に燃えていて、クラスメイトを巻き込みながらたぎっている。颯真とは真逆で友達は多いが、一部の女子からは距離を置かれもしている。
颯真は鷹木とはそれなりに話す仲だったが、飼育係に就いてからはご無沙汰であった。今では、影取りの生き残りの一人である。
「なに?」
颯真は、やれやれと言わんばかりにため息をついて振り向いた。鷹木にはそろそろ話しかけられるのではと予感していたからだ。ここまで放置されてきたのは運が良かったからかもしれない。とはいえ、鷹木がこれまで相手してきたクラスメイトのことを考えてみると、ここまで相手にされなかったのもわかる。鷹木は、強い相手を求めていたのだ。あえて鷹木と同じような雰囲気を帯びたクラスメイトから勝負を仕掛けていた。そして、ようやく颯真の番が回ってきたのである。
鷹木の顔を睨んでみると、やはり、鷹木の目は燃えたぎっている。気圧されて、颯真はすぐに視線を逸らしてしまった。
「お前と琢磨だけだろう!」
それだけだった。鷹木の面倒なところは、時折目的語を省くことだ。会話は断然下手なのだ。幸い、分かりやすい性格だからある程度はすぐに察せられるが。
鷹木の指はビシッと颯真の顔を射るように突きつけられている。その手は、川上先生とは違って随分と力強く、それこそ炎を纏ったかのようだ。お前を全力で打ち負かす、そういうメッセージが指先に込められてる気がしてならない。それを察して、颯真は苦い顔をするしかない。
「俺と影取りバトルしようぜ!」
「……やだよ。俺、忙しいから」
逡巡した後、颯真は顔を伏せて返答した。
「なんでだよ?」
「だから、忙しいんだよ。あとさ、影取りなんて知らないし……」
「知って!」
これが鷹木の実直なところだ。相手の事情を忖度しようとはしない。ノリが合ったときは最高の友達だが、対立したときは本当に面倒な人間でしかない。
「今更できるかよ」
そう言って、颯真は踵を返して教室を出ようとした。しかし、教室を出る瞬間に誰かとぶつかって教室に押し戻されてしまう。
「知らなければ知ればいい。私が教えてあげようじゃないか」
颯真の前に立ち塞がったのは、颯真よりも背が高いが、ひょろ長でしわしわであり弱々しい体だ。見上げれば、浅間がそこにいた。
颯真は浅間の登場に驚き戸惑う。檻がある部屋でしか会うことがなかったし、そもそも学校関係者なのかも怪しい。そんな浅間が堂々と教室の中に現れた。どうしてと言わんばかりに、颯真は目を見開いて浅間の顔を見つめてしまう。
「飼育係の仕事が大切か? なに、大丈夫だ。琢磨くんが先に行ってるから。それよりも、影取りは面白いぞ。いいか、知らないまま小学校を卒業するのはもったいない。私が教えてあげるから、この子と勝負してみなさいな」
「決まりだ!」
鷹木がニヤリと笑いながらガッツポーズを作った。
振り向いて嬉しそうにする鷹木を見て、颯真はまた苦い顔をするしかなかった。
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