第2話
まただ。
何かがおかしい。
颯真は授業中ながらも怯えた小動物のように首をキョロキョロと動かして周囲の様子を確かめた。教室全体にどこか違和感が漂っている。じんわりとした澱みが不規則に浮かんでいるような気がしてならない。その正体はすぐに分からない。ただ、授業が始まってからずっと感じられている。黒板でもない、机の上でもない、窓の外でも、廊下でもない。颯真は様々な場所に視線を走らせては凝視したが、どこにも違和感の正体は見当たらない。
しかし、ずっと何かの気配や触れられているような感覚が不規則に颯真を襲い、颯真の意識を散らすのである。そんな違和感が現れては消えを繰り返し、無視はできない。耳の奥がむずむずするというのに、耳かきが見つからない時と同じくらいにもどかしい。
颯真は、こんな感覚は初めてではない。いや、颯真だけではない。クラスのみんなだって、学年が上がってからずっと何かしらの違和感は覚えているのだろう。そう、颯真が六年生になってからずっとだ。実際、昨日は隣に座っていた赤城だって授業中突然に「えっ?」と声出して、窓の外を一分くらいは凝視していた。一瞬、颯真を見つめてるのかと勘違いしたが、視線を追えばその先には窓の外だった。そして、更にその先には狼のような獣の形をした巨大な雲が空を駆け巡るかのように驚くほどの速さで疾走していたのだ。猛烈な風が吹いているのかと思ったけど、その後の休み時間に外に出たら微風程度の風しか吹いてなくて不思議に思ったものだ。そんな違和感がもう四月からずっと続いている。
結局、違和感の正体はわからないまま授業終了を告げるチャイムが聞こえてきた。颯真はハッキリせずに気持ち悪い気分は残ったものの、とりあえず解放されて安堵し急いで席から立ち上がった。一時的にも、早く教室から出たい気持ちもあったからだ。
けれども、全く予想外な違和感が颯真の前に立ちはだかった。教室を出ようとした瞬間、扉手前に座っている琢磨が急に立ち上がって颯真の行手を遮り、鼻先を突き出しながら颯真の肩越しに顔を近づけてきた。その態度は、まるで観光地の池に群がっている鯉のようにがめつく鬱陶しい。颯真は、突然目の前に現れた鼻に戸惑いと軽い嫌悪を感じて退いてしまう。
「なに? なんなの?」
颯真は必死に突き出される琢磨の顎を押さえて押し返す。
「フンッ!」
琢磨の鼻息が一段と強く吐き出された。
琢磨はいつだって無口で、感情を言葉で表そうとはしない。今のように強く鼻息することもあれば、唇を震わせることもある。小五からクラスは一緒だが、未だ颯真は琢磨のこの態度を理解することはできていない。怒っているようでそうでないし、遊んでいていきなり帰ってしまうこともある。普段は大人しいだけに、余計彼の態度が何を表すか理解できず、クラスのみんなは彼の動きに辟易している。
「行くよ」
訳もわからないし、そもそも違和感立ち込める教室から早く立ち退きたかった。颯真は、琢磨を無視して教室を出る。違和感、焦り、戸惑い、刺々しい感情が入り混じり、颯真は落ち着きを失っている。いつも休み時間は楽しいひと時だというのに、今は全く真逆な時間だ。琢磨などに構っていたら、一日がおかしくなる。
「臭う!」
颯真の背後から叫び声が聞こえた。聞き覚えのない声だ。驚いて振り向く。
そこには、廊下に出てきた琢磨が目をまん丸としながら颯真を睨んでいた。
琢磨の声を初めて聞いたかもしれない。いや、もしかしたらどこかで聞いたのかもしれない。だが、それすらもう忘れた。鼻にかかった声だ。
颯真は、琢磨の声に何も返せずに下駄箱に向かって走り出していた。
琢磨は、それからは颯真に近づくことなく、ずっと大人しく席に着いて石像のようにしながら授業を聞いていた。どうやら解放されたのだなと颯真は安堵していたのだが、それも一時的な安息だったと放課後になって気がつく。
放課後、掃除も終わり今日も隠れ部屋の檻を見に行こうと教室を出ようとした時、また琢磨が颯真の行く手を遮るようにして現れた。少し急いで教室を出ようとしていただけに、勢いよく琢磨の大きなお腹にぶつかった。あまりの弾力にゴムのような何かに当たったのかと思ったが、そこには確かに黄色いTシャツを着た琢磨の腹が聳えていた。
「フンフン」
体を大きく逸らした颯真の顔に、また琢磨の鼻が近づいてきた。
「だから、なんだよ」
「臭う! 颯真くんの体、ケモノの臭い」
「え?」
琢磨に言われて、颯真は慌てて自分の服の臭いを確認してみた。
Tシャツを引っ張って、琢磨のように鼻をクンクンさせた。たまたま通りかかったクラスの女子が、二人のおかしな動作に笑いながら通り過ぎていった。それを見て、颯真は少しイラッとする。
「おい、臭わないじゃん?」
怒気を孕んだ颯真の声にも怯まずに、琢磨は済ました顔を崩さない。更に、今度は天井を見上げて目を見開き始める。
「おい、どうした?」
「……聞こえる。ケモノの声」
「ケモノって、だからなんのことだ?」
颯真の問いかけには答えず、琢磨はじっと耳を澄ましていたかと思うと、今度は急に教室を飛び出した。
「だから、どうしたんだよ?」
「ケモノ、上にいる!」
琢磨は走りながら叫び返してきた。颯真は琢磨が叫んでいるところを初めて見ただけに、戸惑いを覚えた。それだけに、これはただ事ではないというのは直感で分かった。いつの間にか、颯真の体も琢磨の後を追おうと必死になって駆け出していた。
そして、琢磨の後を追ううちに行き先も段々と分かりかけてくる。今、二人は校舎の一番隅にある階段を駆け上っている。この先、一番上にある場所は屋上なんかではない。
「ここって……」
そこは、颯真もまた向かおうとしていた場所。開かずの扉だ。正確に言うなら、開くことのなかった扉だ。そして、その扉は二人を迎え入れるかのように開いている。前は川上先生が出る際にキッチリと鍵を閉めていた。いつも開いているわけではないのは間違いない。では、もう川上先生が来ているということか。
階段を思いっきり駆け上がり、息を切らした二人。颯真はまた入ることに躊躇いを覚えたが、琢磨はなんの躊躇も見せずに小さな扉を狭そうにして入り込んでいく。
それを見て、颯真も慌てて後に続く。
中には誰もいなかった。
川上先生も、浅間というおじさんも、誰もいなかった。
「ケモノ……いる」
気がつけば、琢磨が部屋奥の檻の前で柵を掴んで自らの鼻を押し付けて臭いを嗅いでいる。本当なら、そんな光景が面白くて琢磨を笑ってやりたくなる気分なのだろうが、颯真は状況が状況なだけにどういう反応が正しいのかわからずに琢磨の背後でキョトンとしてるしかなかった。
「何かいるように見えるか?」
颯真は、そっと琢磨の背後から声をかけた。颯真には、どう見ても何かいるようには見えない。
「いる」
「いるの? どこにだよ。何も見えないよ」
「僕にも見えない。でも、臭う。ケモノの臭い。あと、色を感じる。紫の風の色」
「え? どういうこと?」
颯真は、戸惑いを露わに琢磨の横に立って琢磨の顔を覗き込んだ。
琢磨はふざけた様子もなく、じっと真剣な目つきで檻の中を覗いている。
「なんかいるのか? 俺には何にも見えないけど」
「いる、紫の風の色だから、多分弱ってる。何かあげないと。颯真くん、何かあげないと」
琢磨は急に口調を変えて颯真に懇願し出した。その様子からして真剣なのは分かる。しかし、颯真はこんな態度の琢磨もまた初めて見ただけに戸惑った。琢磨のハッキリと感情を表した態度を初めて見たかもしれない。何というか、別人とまではいかなくても、急に見知らぬ人のモノマネを見せられたような気分だ。どうしたんだ、と声を掛けてやりたいが、琢磨の様子からして真剣そのもので、戸惑う方がおかしいのかもしれない。そもそも、紫の風の色って何だろうか。
「……ああ、えっと、何だって?」
「弱ってるから、何かあげないと」
「弱ってるって……」
そこで、もう一度颯真は檻の中を見たが、やはり颯真の目にはどこをどう見ても檻の中には何もいない。紫色の物体だって何一つない。理解し難い琢磨だが、何もいない檻にこんなことを言うとは、理解不能も極まれり、だ。颯真は、ただ無言でしばらく琢磨を見つめ返すしかなかった。
「おお、もう来てたか」
嫌な間を破ったのは、脇下を弄られているような、変に崩れた笑顔を浮かべた川上先生だった。両手を広げて、二人の存在を歓迎しているような態度を示している。
「やあやあ、こんにちは」
川上先生の背後には、浅間と呼ばれていた白髪の男が立っていた。この人は関係者なのだろうか。これまで颯真は浅間を学校内で全く見たことがなかっただけに学校関係者かどうか怪しく見えて仕方ない。とはいえ、それにしては堂々とした態度で現れた。部外者だとしたら、あまりに態度が大きくないだろうか。学校にいることが当たり前のような雰囲気だ。
「やあ、颯真くんだっけ、こんにちは」
浅間がにこやかな顔でひどく穏やかに颯真に直接話しかけてきた。物腰は非常に柔らかくとても好印象を与えるのだが、場が場なだけに逆にその穏やかさが颯真には不気味に見えてならない。
「それと……」
浅間はゆっくりと琢磨へ顔を向けた。
「フン……」
琢磨は一つ鼻息を漏らして黙ってしまった。初めて見る男に警戒しているのだろう。
「君かな? 紫の風の色がどうこう言っていたのは」
「……そうです、紫の風の色が吹いてる。早く助けないと」
颯真は、少し驚いて琢磨を睨んでしまった。今日初めて琢磨のまともに話すところを見たと言うのに、警戒した琢磨が一瞬にしてまともな言葉を吐き出したのだ。何が起きたというのだ。
「そうか……では、この水を使ってみなさい。これは、真っ暗月の光に浸した水だ」
浅間は小さく肯首しながら持っていたカバンからペットボトルを取り出した。ぱっと見はただの水か入ったペットボトルにしか見えない。
琢磨は、恐る恐るペットボトルに顔を近づける。
「クン……あっ!」
一度大きく鼻から息を吸い込みペットボトルの匂いを嗅いだ琢磨は、次の瞬間には驚いたように体を跳ね上げ、すぐに浅間の手からペットボトルを取り上げていた。興奮したかのように何度もペットボトルの匂いを嗅いでいる。
「さあ、檻は開けておいたから」
いつの間にか、川上先生は檻の施錠を開放していた。何もいないはずの檻なのだが、開けられた檻の扉を見て颯真は一瞬警戒して身をこわばらせてしまう。
そんな颯真を気にすることなく、琢磨はペットボトルを手に檻の中に入っていく。
「さあ、颯真も中に入らないか。お前の仕事だろうに」
川上先生が戸惑っている颯真を手招きしてきた。
「マジで……」
それでも、颯真は檻の中に入るのを躊躇ってしまった。
だが、後ろからかなり強い圧力が加わってきた。浅間が颯真の背中を力一杯に押しているのだ。抵抗したいが、浅間の力はその見た目以上に強い。
「マジかよ!」
結局、颯真は強制的に檻の中へ押し込められてしまった。
「ねえ、颯真くんなら気を感じるでしょ。この子がどこにいるのか」
檻に入るなり、琢磨は颯真に問いかけてきた。
「どこ? わかるかよ! なにもいねぇじゃんか!」
「颯真、見ようとするんじゃない。感じるんだ。お前なら感じ取れる。いや、むしろお前だから感じられる。私にはわかる。私はお前の才能を確信してるのだぞ」
檻の外から川上先生の声が飛んできた。何を言っているのかさっぱりわからない。檻の中は、じっと颯真を見つめている琢磨しかいない。琢磨以外に何を感じ取れというのだろうか。
「颯真くん、手を前に出しなさい。そして、ゆっくりと床へ近づけるのだ」
今度は浅間がアドバイスしてきた。ひどく落ち着いた声はどことなく説得力を帯び、川上先生の言葉よりも素直に従ってみようと思わせられる。
颯真は、訳もわからずに腰を落としながら手を突き出してみた。
数秒間は何も起きはしなかった。だが、十秒を過ぎたくらいからか、急に指の先に何かが触れる感触が伝わってきた。颯真は驚いて手を引っ込める。何かが触れたのは確かだ。しかし、颯真の目には突き出していた空間には何も映りはしない。どういうことだろうか。
「そこにいるんだね」
戸惑っている颯真を半ば押しやるようにして、琢磨がペットボトルの蓋を開けながら颯真の体を追い越してきた。そして、琢磨は持っていたペットボトルの中身を颯真の手が何かに触れた場所へ向けて振りまく。
その刹那、琢磨が撒いた液体を起点として、ふんわりと柔らかく広がるように爽快な風が巻き起こり、檻だけでなく部屋全体を駆け抜けていく。
そして、川上先生と浅間だけは、檻の中をうっすらとした影が横切るのを目撃していた。
二人は、チラリと視線を交わすと、わずかに頷きあうのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます