影喰らう
クロフネ3世
第1話
友永颯真は、見かけるたびに不思議に思って仕方ない場所が校舎内にあることに気がついていた。三階の端の方にある音楽室の、更に奥にある階段を登った場所にある空間だ。校舎の中でも人通りがほとんどなく随分と寂しげな場所であり、颯真も滅多に利用しない階段の先にある。
本当は三階が最上階であり、これ以上上がれば屋上のはずなのに、その階段は屋上に続いているわけでなく、小さな扉で颯真の行手を塞いでいる。扉は小学六年生の颯真が少し体を丸めてないと入れなさそうなくらいの小ささだ。ガッチリとカギがかかっていて開かないし、颯真は開いているところを見たことがない。クラスの友達に聞いても、みんな開いたところを見たことがないと言っていた。誰も扉の先に何があるかは知らなかった。
誰もみたことがないからこそ、颯真にとっては魅惑的であり、関心の対象になっていた場所だ。学校の授業は面白くなく、最近は友達との遊びもなんだか気が乗らない時が増えてきた。小学生にとっては新鮮な体験などいくらでもあるのだろうが、颯真の家庭環境の事情などがそれを許さない。だからこそ、颯真は退屈で少しでも日常を壊す何かを求めていた。だから、何気ないようにも見えるし、捉えようによっては不思議な場所にもなる扉にでさえ魅力を求めていた。
そして、ある日突然、扉の先に何があるのかを知る日がやってきた。そう、颯真が求めていた刺激が開かれもしたのだ。
「入りなさい、颯真」
小さな扉の奥から抑揚の効いた声が聞こえてきた。ゆったりとしてるが、どこか楽しんでいるような雰囲気が感じ取られる。
颯真はその声とは真逆に、不安そうな表情を浮かべながらゆっくりと小さな扉の枠に手をかけ、そっと中を覗き込んでみる。あんなに不思議いっぱいでみんなで、人が住んでるだの、校長先生が持ってるお宝がしまってあるだのと、いい加減な噂をしあっていたのに、いざ入れるとなると何が出てくるかわからない怖い気持ちと待望の刺激がお待ちかねという好奇心とで複雑な気分になっている。それでも、ゆっくりと扉の中に顔を入れてみる。
「……あれ?」
中は拍子抜けだ。颯真の自宅部屋よりも少し広い程度の空間にはほとんど物が置かれていない。人が住んでいたりお宝が隠してあったりする気配は何一つない。部屋には細長く小さな明かり取りの窓がある程度で、窓から差し込む細やかな光が埃っぽい部屋を照らしていたが、全体的にはだいぶ薄暗かった。
あるのは、薄暗い部屋の奥にある一つの檻だけだ。
……檻?
颯真は、予想外の物が見えて目を細めてしまった。
「どうしたんだ? こっちに」
先に中へ入った川上先生が、人差し指を床に突きつけてここに来るようにと促していた。川上先生の人差し指は、小枝のように細く貧弱に見える。拾ってきた枝を魔法の杖のように振り回してるようにも見えて仕方ない。風貌だってそうだ。痩せた体はひょろ長で何処か危なげなほどに不健康に見える。顎髭を生やしてはいるが、力強さは感じられずに逆にまともな生活を送れていない印象を与えている。その風貌から、生徒たちは授業以外になるべく近寄らないようにしていた。颯真もまた、川上先生のことを不気味がって、心の中で怪しい魔法を使えるのではと思ってさえいる。だからこそ、その細い指を示されると少し警戒もした。
川上先生が示した場所は、檻のすぐ手前だ。目を大きく見開いて少し微笑んでいるようにも見える。授業中に見たこともない奇妙な表情だ。少し怖い。それが、颯真が進むのを躊躇わせてしまう。
「どうした? 早くしないと、日が暮れるぞ」
そう言われて、少し慌てた。暗くなってから帰っては、颯真の親に心配されて面倒である。颯真の親は、二人とも時間にはシビアで、日が暮れてから帰ってくると厳しい口調で怒ってきたりもする。それを考えると、気持ちも急いてくる。
颯真は、怯えつつも、先生が示す方へ進んでいく。
「よし、この檻を見てみてみろ。これが飼育委員の大切な仕事だ。颯真は、明日からこの檻の中の生き物を育てるんだ」
先生の声は、また抑揚を効かせて穏やかに喋っていた。まるで、話すことが心地いいかのように。表情も柔らかい笑顔を見せて、満足そうである。
「え? でも、生き物って……」
対照的に颯真は不安そうな声を漏らしながら薄闇の中の檻の中を凝視した。いくら目を凝らしてみても、檻の中には生き物どころか物体そのものは何一つ見えなかった。いったい、川上先生は何を言ってるんだろうか。それとも、明日までに檻に新しく生き物が持ち込まれるのだろうか。
川上先生は、しばしば小学生の生徒相手にも小難しい話はするし、大人にも意味が通じないような頓珍漢な話をし出して周りを混乱させる。先日も、颯真のクラスで生徒を前にして満面の笑みを浮かべながら
「カレー屋に入ったら、ラッシーが舌を出して壁中を疾走してたものだから、思わずソニックムーブを撃ってやってね。これがものの見事にスマッシュヒットしたわけさ。三十万枚ぐらいのスマッシュヒット。今の時代、もう無理かと思ってたんだけどね。ご機嫌になったから、店主にサインしてやったよ。駅前のカレー屋、寄ることがあったら確認してみてくれ」
みんな、何のことやらサッパリ分からなくてポカンとしていた。颯真は、普段から川上先生のことを魔法使いかと訝しんでいるだけに、この手の発言は川上先生独自のまやかしか何かだと思えていた。ソニックムーブとは、川上先生独自の魔法なのかもしれない。もちろん、それが実際の魔法でなく何かの比喩かもしれない。でも、そうやって想像していた方が面白いじゃないか。ただ、安全な距離を開けられて高みの見物できるような状況でなければ楽しめない。こうやって目の前にいられては別だ。
それでも、そんな発言、日常茶飯事なだけに今回も気にかけちゃいけないのかなと颯真は平然を装うことにした。今颯真に求められているのは平常心だ。川上先生の魔法に飲み込まれてはいけない。
「どうだ、かわいいものだろう?」
突然、川上先生がかがみ込んで颯真の顔を覗き込みながら笑みを浮かべて聞いてきた。
その笑みの不気味さと問いかけの不可解さに、颯真はうつむいて顔を背けて焦りを覚え出した。やはり、川上先生の言葉は理解できない。どう見たって何もいない檻を前にして何がかわいいと言うのだろうか。
颯真が返事に困って黙り込んでいると、川上先生は檻の鉄格子を一本力強く掴んで、颯真にもう一度問いかける。
「どうしたんだ? かわいく見えないか? こいつの世話は颯真の大切な仕事だろ。嫌なのか?」
「嫌じゃないです」
「なら、かわいがってくれよ」
「……わかりました」
颯真は、訳がわからないながらも無理矢理に笑顔を作りながら弱々しく首を縦に振った。内心では、もはや大混乱である。苦手な算数のテストを受けていても、ここまで混乱したことはない。ますます川上先生のことがわからなくなった。これが川上マジックなのか。
「大丈夫か?」
ため息混じりに川上先生が聞いてきたので、慌てて颯真はもう一度力強く首を振った。混乱してはいるが、とにかく気を遣われるのも嫌だ。それに、このまま川上先生のペースで進んだら、ますます颯真は混沌の闇の中に沈んでしまう。平常心と、颯真は拳を握る。
「おう、いたいた」
そこで、二人の背後から声がした。
快活で声に張りがある。狭い部屋にいると少しうるさいくらいだ。颯真は慌てて声の方に振り向いたが、そこで驚いた顔を浮かべてしまった。
そこにいたのは、スッカリと白髪で頭が覆われて、にこやかな表情の隙間にはびっしりと皺が刻まれた老人が立っていたからだ。声に比例してビシッとした背筋とまだまだ筋肉が衰えない体だけを見れば若々しいのだが、顔を見れば確かに齢七十前後に見える。そのギャップに、颯真は呆然とした顔で戸惑う。
「この子が新しい世話係の子かい? どうした、変な顔して?」
「やあ浅間さん、わざわざすみませんね。この子がそうなんですよ。ちょっと用心深い子だから、知らない人が来て警戒してるんでしょ」
「そうなのかい?」
そこで、浅間は改めてにったりとした笑顔を作り直して颯真に顔を近づけてきた。川上先生に負けず劣らず気味の悪さで、颯真は思わずギョッとしてしまう。
「あははは……本当に警戒しちゃって、かわいい子だな」
浅間は、今度は豪快に笑いながら颯真の頭を掴んで力強く擦り付けてきた。表面はシワシワなのだが、見た目ではわからない力強いエネルギーが手のひらから伝わってくる。もしかしたら、浅間と比べればずっと若い颯真の父親よりも力があるんじゃないか、颯真は頭を振られながらそんなことを思っていた。そして、その力があまりにも強く、颯真の体がよろけてしまい、檻の前で尻餅をついてしまう。
「浅間さん、相変わらず元気はつらつですね。まだまだ現役で行けるんじゃないですか?」
「いやいやいや、月白の裂け目を舐めちゃいけない。もう、若い者だけに任せないと。あとはせいぜい手取り足取り……影取り、なんてな」
川上先生と浅間は、倒れ込んだ颯真のことを全く気に止めるそぶりを見せずににこやかに会話を続けていた。颯真の同級生たちならば、すぐさま心配して駆け寄ってくるというのに、大人の二人は全くの放置である。少し困った気持ちはあったが、川上先生のおかしさなら不思議でもない。颯真は諦めながら身を起こそうと檻の鉄格子を掴んだ。
その瞬間、手のひらに大人二人の態度を越える違和感が伝わってきた。思わず、ギョッとして「ヒッ!」という短い悲鳴が颯真の口から漏れてしまった。
颯真は慌てて自分の手のひらを確認してみた。見れば、べっとりとした黒い液体が手のひらいっぱいに付着している。ドロッとした粘液が腕をつたって地面に落ち、不快極まりない。
「……何これ?」
「何って……まあ……よだれだな」
「確かに、よだれそのものですな」
泣きそうな顔をして自分の手を見つめている颯真を、川上先生と浅間は見下ろしながら不思議そうに答えた。まるで、気持ち悪がっている颯真の方がおかしい雰囲気だ。
「大丈夫だ、溶けはせん。それよりも、檻の掃除も颯真の仕事だからな。本当にしっかり頼むぞ。浅間さんも手伝ってくれるから、私がいない時は浅間さんに聞くがいい」
「宜しくな」
相変わらず、浅間はニッコリとした笑顔を浮かべている。
それにしても、この浅間さんって誰なんだろう?
颯真には、それをこの場で聞く勇気は持ち合わせていなかった。それよりも、早く手を洗いたくて仕方なかった。
「現代社会は見えないものを恐れるが、それを受け入れ、挑戦することが大切だ」
最後に、川上先生は真剣な顔をしてそんなことを言ったが、もはや颯真の耳には届いていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます