第2話 さすがのリア充も目からビームは撃てない

 アヒル川沿いの大きな通りを下って、途中で脇道にそれる。そんな、少し奥まったところに、落ち着いた雰囲気のカフェがあった。こちらは緑川翠のバイト先である。

室内は木造で、照明の色合いもあって、あたたかな雰囲気を醸し出している。コーヒーを挽く香ばしい香りが漂っていた。また、大きなガラス窓から、きれいな中庭を眺めることができる、そんな席で、本間充はのんびり本を読みながらコーヒーをすすっていた。


 好きな本を読む。たまにコーヒーカップを傾ける。目が疲れてきたら、カウンターとフロアで接客に従事する彼女の姿を眺める。テキパキ動いて、ハキハキしゃべる。どう考えても有能なバイトである。

 そしてまた、読書に戻る。



「何読んでるの?」


 不意に影が差す。細身のジーンズに清潔な白いシャツ。その上から緑色のエプロンをつけた翠である。客足も落ち着いたので、フラッとこちらにちょっかいをかけに来たらしい。そのくらいの息抜きは許される、アットホームな職場らしい。

充は適当なところで栞をはさみ、顔を上げた。


「ナボコフの『ロリータ』だよ」


 愛用のブックカバーを外し、文庫本の表紙を翠に見せる。ちょっと誤解を与えてしまいそうな、少女の脚の写真が印刷された新潮文庫の表紙である。


「ああ、それね。アメリカ文学の講義で聞いたことあるけれど、どうにもとっつきにくくて、私は読んでないな……」


 さすがに教育学部四回生の翠は知っているようだった。

 所謂ロリコン――ロリータコンプレックスの語源たるこの文学作品を。


「たしかに、何も知らない人が見たらポルノ作品に見えるもんね。実際、発行当初は問題になったらしいし」


 愛しのロリータを手に入れるため、その母親と結婚し、次は邪魔者となるその母親を殺してしまおうと計画する主人公の様子を読んだ時には、まったくの問題作だと充自身も思った。そこはまだ中盤で、後々もっといろんなことが起こるのだが……。


「ふうん……どうしてまた、それを読もうと思ったの?」


 翠が少し首を傾げる。


「今日の夜、文芸サークル『住所不定』の読書会に呼ばれてるって言ったでしょ? その課題本なんだよ。だから、読み返して意見を整理していたんだ」


 どんなサークル名だよ、と充も思った。そのサークルは拠点を持たない。どこかの教室を借りたり、カフェや居酒屋に集まったり、メンバーの家に押しかけたりして活動する。それ故の『住所不定』。主な活動内容は読書会である。


 充は実のところ、その文芸サークルに所属しているわけではない。というか、どこのサークルにも所属していない。所属はしないが、人脈を駆使していろんなサークルに出入りはしている。掛け持ちとも少し違う。スポーツ系サークルのイベントに助っ人的立ち位置で参戦することもあるし、文化系サークルの数合わせに馳せ参じることもある。


 大学では広く浅く経験を積むつもりでいた。そのためには、どうしてもどこか特定のサークルや部活動に所属するのは非効率な気がしてしまうのだ。


 そして何より、彼には次元超越体すなわちDTと戦うという、リア充の使命があった。


「ふうん、部外者が呼ばれることもあるんだね。目をつけられてるんじゃないの?」


 翠は楽しげにクスクス笑った。


「かもね。あっちに所属している知り合いにたまたま招待されたんだけど、結局は勧誘されるのかも」


 充はこともなげに答える。

 実際、勧誘されたとしても応じる気はなかった。それでも今後穏やかに仲良くしていく自信はある。


「もしかして……その知り合いって女の子?」


 翠は少しだけ表情を曇らせる。充に気取られないように、ほんのちょっとだけ。


「え? うん、そうだけど。何でわかったの?」


 友達ではなく知り合いと表現したのは少々意味深だったか? べつに他意はないんだけど、と充は思う。


「ははーん、もしかしたら、別の勧誘を受けるかもよ?」


 翠はそう言うと、いたずらっぽく笑った。しかしその笑みは、どこかぎこちない。


「ハハハ、まさか。悪い冗談はよしてくれよ」

「ふーん、でもわかんないよ?」

「もし仮に、万が一そういうことがあったとしても、僕は翠ちゃんだけを愛してるからね。心配いらないよ」


 充は翠の耳元に口を寄せ、小さな声で、やはりいたずらっぽく言った。


「ちょっと……もう、そういうこと真顔で言わないでよ」


 翠は恥ずかしそうに目を背け、仕事に戻っていった。

 うん、嫉妬するのもやはりかわいい。親バカならぬ彼氏バカだけれど。


 だいたい、彼女がバイト中だとわかっているのにこうしてコーヒーを飲みに来るのは、彼女に悪い虫が付かないよう牽制する意味もあるのだ。

 このカフェには緑川翠狙いの男性リピーターがいるであろうことはわかっている。そういう輩には目から嫉妬ビームを放つのである。


   ◆場面転換――アヒル川のほとり


 日が傾き、夕日が川をオレンジ色に染める頃、充と翠は手をつないで川岸を歩き、翠の前で別れることにしていた。

 翠はバイトが終わって帰宅する。家に帰ったらゼミの発表準備のために勉強をするらしい。

 一方の充はこれから件の読書会へ赴くのである。


 しかし、背を向けようとした充の腕を、翠がふいに掴んだ。


「ん? どうしたの?」


 充が尋ねると、翠は黙って頭を彼の胸に押し付けた。


「ごめんね……」


 翠の漏らす弱弱しい声に、充は動じるでもなく、胸に押し付けられた彼女の頭を、そっとなでた。


「何か謝られるようなこと、あったかな?」

「勝手に疑って嫉妬して、ごめんね」

「あぁ、知り合いのこと? ホントに嫉妬してたんだ……冗談だと思ってた」


 充はこともなげに笑った。もちろん充の嫉妬ビームだって冗談である。さすがのリア充も目からビームは撃てない。


「そりゃあ、まぁ冗談だったけど。なんだか後から気になっちゃって」


 翠は顔を上げて、照れ臭そうに笑った。


 実のところ、翠は充の前にも男と付き合っていたことがあった。その恋は男の浮気によって終わったのだが……。だから彼女は、そのあたりに敏感になっているのかもしれない。


「大丈夫。すぐに翠ちゃんのところに戻ってくるよ」


 充は優しく声をかけて、周りに人がいないことを確認すると、そっとキスをした。


「うん、待ってるよ」


 それからようやく、二人は別々の方向に歩き出した。

 傍から見れば、痛々しいほどにラブラブのカップルである。


   ◆場面転換――大学構内


 今回の読書会は、大学構内の小さな教室を借り切って行われる。今日集まった『住所不定』のメンバーは十数人である。

 充は、自分を招いてくれた青井の隣に座っていた。


 青井あおい青藍せいらんは文学部の二回生である。教育免許取得のために必要な国文学の授業でいっしょになったのが、知り合うきっかけだった。


 大学においては勉学そのものももちろん大事だが、単位取得のための情報共有もまた重要である。だから充は同じ授業に参加している同級生には積極的に話しかけるようにしている。もちろん男女の分け隔てはなく。


 青井とは読書傾向が似ていることもあって、ポツポツと世間話などをする仲になっていた。座席が指定されているわけでもないけれど、なんとなく近くに座ることが多かった。


 充が詳しく聞いたわけではないけれど、噂に聞くところによると、彼女はどこぞの良家のお嬢様であるらしい。そう言われてみると、背筋は凛と伸びていて、どこか高貴な雰囲気をまとっている。

 しかし話してみれば気さくな人である。身につけているものも、白の清潔なブラウスに、薄手のカーディガンという風に、これと言って煌びやかではない。ちらりと見える腕時計やネックレスは確かに高級そうではあるが……。


「何か?」


 青井が充の視線に気が付いたようである。


「あ、いや……青井さんは、もしかして原書で読んだの?」


 充は視線を彼女の手元に向けた。確かに彼女が手に持っていたのは、『ロリータ』のペーパーバックである。


「いえ、気になったところだけ原文にあたってみようと思っただけですよ。ちょうどお父様の書庫にあったので」


 彼女の細い指が、またページをめくる。


「へぇー」


 充は感心するばかりだった。たかがサークルの読書会で原文にあたってみるという意識の高さもそうだが、自宅に父親の書庫があるというその環境に対してもため息が漏れた。


 そこで、声がかかる。


「さて、そろそろみんな集まったので読書会を始めます!」


 言ったのは会長の野村さんである。法学部三回生らしいが、なかなかの文学青年オーラを持っている。黒縁眼鏡が何とも言えない味を出している。

 一応会長からも、新参者である充のことを皆に紹介してもらって、その後すみやかに読書会がはじまった。


 メンバーの一人一人が気になったところを挙げていって、皆で議論するという、割に大雑把な形式である。


 充はピーター・クリストフスキイという脇役について言及したのだが、これが文学青年たちの興味を引いたようで、そこそこ盛り上がる話題となった。

 本筋には関与しない脇役なのだが、その名の響きが妙に頭に残り、充はそれを記憶していて注意深く読んだ。すると、彼は意外なことに物語の中で何度か登場するのである。

 だからといってそれが何なのかというところまで、充にはわからなかった。だからここで話題にしてみたのである。



 ほどほどに議論は白熱し、午後九時ごろにはお開きとなった。


 その後は食事会となる流れだったのだが、充は辞退した。部外者が二次会まで押しかけてはやりづらいこともあるだろう。充は空気も読めるリア充だった。


「そうかい。まぁ、気が向いたらまた来てくれよ」


 野村会長が名残惜しんでくれた。


「ええ、また来ます。今日はとても楽しかったです」


 そう言って、充は大学を出た。


   ◆場面転換――正門前


「ちょっと待ってください」


 充が相棒のロードバイクを押しながら正門を出たところで、後ろから声をかけられた。

 振り返ると、青井が小走りにこちらへやって来るところだった。


「どうしたの?」

「ええ、私も今日はこれから帰るんです。遅くなるとお母様が心配するので」

「へぇ、そっか。じゃあ駅まで一緒に行く?」


 ほとんどの学生が自転車を所有するこの大学において、青井は自転車を持っていなかった。故に電車通学であろうと予想する。


「はいっ」


 予想は当たっていたのか、青井は嬉しそうに微笑んだ。

 充はその笑顔にドキリとして、昼間の翠の言葉を思い出す。思い出しはしたけれど、この状況でお嬢さんを置き去りにするわけにもいかない。

まぁいいだろう。すぐに気を取り直す。

 駅まで一緒に歩くくらいで、いちいちドギマギするような年齢でもあるまいし、と。


「本間くんはすごいですね。えっと、あの……クリストなんとか……」


 先に話題を提示したのは青井の方だった。


「クリストフスキイ?」

「そう、その方です。あんな脇役に焦点をあてるなんて。私なんか一読しただけじゃ全然気が付きませんでした」


 青井は目を輝かせていた。本当に本が好きな読書家なのだろう。充は純粋に好感をもった。


「いやー、たまたまだよ。ナボコフって、元々ロシアの人だろう? 『ロリータ』を書いた時はもうアメリカに渡っていたと思うんだけど。その小説の中に、明らかにアメリカ系じゃない名前が出てきたもんで、それで記憶の片隅に引っかかってたのかな」

「それにしてもすごいですよ」


 夜の道を、二人はつかず離れず微妙な距離を空けて歩く。


「電車でどこまで行くの? お家は市内?」


 充は少し気になって聞いてみた。


「ええ、市内です。駅には車が迎えに来てくれるのです」


 青井は少し目を背けて応えた。


「え? じゃあ駅まで行く必要ないんじゃ……。どうせ迎えに来てもらうなら大学まで来てもらえば?」


 青井のぎこちない受け答えに、充は少し違和感を覚える。


「い、いえ……なんというか、その、今日は少し歩きたい気分だったと言いますか……」


 いつもは凛とした青井が、今日は妙にもじもじしている。充はやはり不審に思ったが、特に追及はしなかった。


 その後は他愛のない文学トークをして、駅で別れた。

 小さく手を振ってくれた青井に対し、充も軽く手を振りかえした。

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