第2話 目が覚めたら身体が縮んでしまって……いないんやなぁこれが

 翌朝日曜日。本間充は簡単な朝食を済ませてプロテインを飲み、愛機のロードバイクとともに出かける。昨夜のアルコールはすでに抜けている。


 大学総合体育館の脇に自転車を停め、体育館の地下へ。そこは各種トレーニング器具のそろうジムになっていた。学部生は無料で使える施設である。特定のサークルや運動部に所属していない充であるが、週に三回はジムでウェイトトレーニングに励んでいる。


「やぁ本間。今日は何の日だい?」


 白い歯をニカッと見せて快活な挨拶をよこしたのはバーベル部の中山くんである。短パンにタンクトップという出で立ちはトレーニング用というよりむしろ普段着。またその身体は、講義室で近くに座られると邪魔だなと思うくらいにはデカい。教育学部の同期であり、将来は体育教師を目指しているのだとか。


 ちなみに「今日は何の日か?」という質問は、誰かの誕生日とか記念日とか、あるいは祝日かとか何曜日かとか、そういうことを聞いているのではない。


「おはよう、中山くん。今日は胸の日だ」


 彼はもちろん、どの部位をトレーニングするのかを聞いているのである。


「そうか胸か……はい、サイドチェスト!」


 中山くんはその名の通り大胸筋を横から強調するポーズでもって応える。


「じゃ」


 ポージングに夢中な中山くんを置き去りに、充はバーベルラックへ向かう。はじめの頃は「切れてるよ!」とか「ナイスバルク!」とか掛け声をかけていたのだが、そうすると長くなってしまうので割愛。中山くんはそれで気を悪くしたりはしないのだ。


「ふっ」


 まずはベンチプレスで胸の真ん中を狙う。ギリギリ十回上がるかどうかという重量で三セット。ようやく自分の体重くらいは持ち上がるようになってきた。


「くっ」


 次はインクラインダンベルフライで上部を狙う。三〇度くらいの傾斜をつけたベンチでダンベルを上げ下げ。グッとストレッチを利かせるのが気持ちいい。


「はっ」


 最後はケーブルマシンを使って下部を狙う。左右のケーブルを胸の前に引き寄せる。収縮を意識する。


 締めにランニングマシンで少々有酸素運動をして汗を流し、中山くんに別れを告げる。


   ◆場面転換――体育館前


 外に出るとすぐに、西村の姿が見えた。


「え?」


 ここにいるはずがない西村の姿。昨晩はきちんと終電に間に合うよう解散したはずだった。二人の地元は電車で一時間と少しのところにある。何か電車に間に合わないトラブルがあってどこかで夜を明かしたのだろうか。だとすると申し訳ないことをした。一晩くらい泊めてやってもよかったのだ。そう思って充は声をかける。


「おーい、西村」

「ほあ?」


 どうも様子がおかしい。心ここにあらずという感じで目の焦点が定まっていない。


「おお本間やないか。本間はホンマええやっちゃ。うふふ」


 これは……平常通りか? と思いかけたがやはりおかしい。なんだかズボンの前が失禁したかの如くびちょぬれなのである。


「ていうか、くさっ」


 かの如く……ではなかった。大学生にもなって、おもらしをかましているのだ。しかし西村はまだ自分の言ったダジャレにウケて、へらへら笑っている。尋常ではない。


「とりあえず家に来てシャワーを浴びろ。そして着替えるんだ」


 充は自分の自転車を押しながら友人を引っ張る。


「なんかなぁ、俺の中の何かが、しゅるしゅるぅって引っこ抜かれてもうたみたいでなぁ」


 道中、西村はそんなことを言った。


「財布でもすられたか?」

「いんや」


 たしかに彼の財布はジーンズの尻ポケットに入ったままである。


「なんかもっとこう、精神的なものやねん。知らんけど」


 自宅の風呂場に友を突っ込んで、その間に洗濯機を回す。シャワーを浴びて出てきた西村にスウェットの上下を貸してやり、事情聴取をする。


「ええとなぁ……」


 昨晩充と別れた後、駅への道中、人気のない暗がりでフードをすっぽりかぶった黒ずくめの男に襲われたのだという。ヤバい薬でも飲まされたのだろうか。


「目が覚めたら身体が縮んでしまって……いないんやなぁこれが」


 見た目は大学生のまま。やっていることはたっぷりおしっこもれたろうなので、ある意味で幼児退行しているとも言える。


「子どもの姿になったら、ツンデレ幼馴染の家に居候できたかもしれないのにね」


 昨日の話の続き。そんなつもりで何とはなしに、冗談交じりで充はそう言ったのだが、


「ツンデレ? 幼馴染? なにゆうてんの?」


 西村はその部分に関する記憶のみすっかり失っていた。


   ◆場面転換――夕方


「というようなことがあったんだ」


 少々お下品なところを意図的に省略しつつ、充は翠に西村記憶喪失事件の話をした。お下品なところを省略するとほとんど何も残らないではないかという意見もあろうが、酒の飲みすぎと真夜中の不審者には気をつけようという教訓くらいは得られるだろう。


「記憶を失ってるのは、お酒のせいなんじゃない? 黒ずくめの不審者は関係あるのかしら」

「たしかに」


 鶏のもも肉を買い物かごに入れつつ、翠はもっともなことを言う。


 黒のフード男が取り出したというステッキらしきものにぶっ叩かれて記憶が欠落したというより、アルコールの多量摂取により記憶がぼんやりしていると考えた方がわかりやすい。


「なんなら、黒づくめの男っていうのもアルコールが見せた幻なのかも」


 二人は夕飯の買い出しのため、近くのスーパーマーケットに来ていた。週末にはこうして二人で買い物をして、どちらかの家で借りた映画でも見ながら食事をするのが暗黙の了解となっていた。先週は翠のところに充が泊まったので、今日は逆である。ちなみに西村はすでに強制送還している。


「というわけで、今日はお酒いらない?」

「いや、それとこれとは……」

「だと思った」


 翠はいたずらに微笑んで、赤ワインをかごに入れてくれる。大学生の身分にふさわしく、安価だが飲みやすいハウスワイン。鶏肉の他に、かごにはトマト缶と玉ねぎがすでに入っていた。今日は彼女の得意料理である鶏肉のトマト煮らしい。

 充の母はトマト嫌いで、本間家ではお目にかかったことのない類の料理だった。そんな新鮮さもあって、充は翠の作るトマト煮が大好物であった。赤には赤を。赤ワインもマストで合わせたいところである。


「今日は何の映画を見る?」


 スーパーを出て、今度はレンタルビデオ店へ向かう。荷物は当然充が持っている。そのための筋肉と言っても過言ではない。


「あれがいいな、迷宮の十字路」

「十字路と書いてクロスロードね」


 アニメや二次元界隈に興味のなさそうな翠ではあるが、さすがに国民的アニメの劇場版は知っているようだった。


「ちょっと見返したくなる訳があってね」

「まぁいいけど。懐かしさに浸るのもわるくない」

「同意を得られたところで……悪いんだけど、ちょっとトイレに行ってきていいかな?」


 西村のことを思い出していると、不意に尿意が。


「うん、いいよ」

「すぐ戻る」


 買い物袋を一時翠に渡し、充はトイレへ走る。

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