第1話 イトコって漢字で書くとエロいよな
白を基調として、最低限の家具が整然と並べられている。本棚の中の本は大きさごと、種類ごとに整列しており、ハンガーにかかった洗濯物がベランダで等間隔に並んでいた。まったく埃の存在が感じられないほどに清潔である。彼女には少し、潔癖なところがあった。
ベッドに横たわる充の隣には、翠が生まれたままの姿ですやすやと眠りこんでいる。肌は白く、きめ細やかで、シミひとつない。男には想像もつかない努力という名のお手入れが施されているのであろうことがわかる。桜色の唇が少し空いていて、そこから規則正しい寝息が聞こえる。
充は枕元の時計を見て、まだ少し余裕があることを確認してから、彼女の寝顔を見つめ、思わずそのつややかな髪を優しく撫でた。
◆回想――1年前
充が彼女と出会ったのは、彼が大学に入ったばかりの頃だった。彼は今二回生であるから、だいたい一年ほど前のことになる。
彼の所属する教育学部は縦のつながりが疎遠だと前々から噂されていたのだけれど、学部内交流会なるものが、実は存在していた。それを知った充は、先輩方とも仲良くなろうと、揚々出かけていったのである。
そこで出会ったのが、当時三回生だった翠である。たまたま近くの席にいた二人は、軽く世間話などをしていた。初めはただそれだけのことだった。目と目があった瞬間電流が走ったような気もしなかったし、彼は彼女のことを格別可愛いとは思わなかったし、彼女の方も彼のことを格別イケメンだとは思わなかった。現実というものは、それほどドラマチックにできていない。
それでも話しているうちに、お互いの根底に何か通じるものが見え隠れするようになった。あるいはそう思ったのは充だけかもしれないが。とにかく彼はそう思った。
交流会後にもう少し砕けた感じの飲み会が催された。その席でもやはり二人は同じテーブルにいた。
翠は当時三回生だったので、話の種が尽きかけたころになって、就職活動の話題になった。彼女は出版社で働きたいのだと言った。名前として挙がったのは、日本で義務教育を受けた者ならば嫌でも知っている教科書出版社の数々である。
なるほどそういう道もあるのかと充はシンプルに感心した。教育学部だからといって必ずしも教員になるわけではない。この大学で教員の道に進む教育学部生は六割程度だと聞いていた。残りの四割について、恥ずかしながら充は考えもしていなかった。
その時その場では、充は何も言わなかった。しかし酒がまわったこともあってか、飲み会がお開きになってから、わらわらと解散する人ごみの中から、翠を呼び止めた。
「あの!」
「なぁに? 本間くん」
その声は、ぼんやりとする充の頭に、優しく響いた。
「僕、先輩のことをもっとよく知りたいです!」
◆回想終わり――現在
その日から、二人の関係は始まり、そして今に至る。おいおい結局酒の勢いかよという意見があるかもわからないが、まぁそうである。本間充は一浪しているのでギリギリ二十歳であったことも追記しておく。
またもう少し補足するならば、その日、充は彼女に指一本触れていない。あくまで二人の出会いの回想であって、ここまでの関係になるには、そこからまた月日を要する。
充は起き上がった。
「ん? もう起きちゃうの?」
翠が眠そうな目をこすりながら、寝返りを打つ。髪が扇のように広がった。
「うん、今日は一限あるからね。割と興味のある講義なんだ」
「ふーん、まぁいいけど」
そうは言いつつも、彼女は少しだけ不満げであった。まだ半分夢を見ているような目でこちらを見る。
「お互いやるべきことはちゃんとやってからイチャイチャしたほうが良いだろう?」
充は服を着ながら、あっけらかんと言った。性欲に下半身を、迷妄に頭脳を支配されることは避けなければならなかった。
「イチャイチャって……もうちょっと包み隠して言ってよ、もう……」
翠は照れた様子で可愛らしく頬を膨らませた。充はそれを見て、思わず笑みをこぼす。
「翠ちゃんも卒論あるだろ? 内定決まったからって、卒業できなかったら元も子もないじゃないか」
翠はこの春、元来のコミュニケーション能力とそれに付随する人望によって、とある出版社(あの日名前が挙がった内の一つだ)への就職を決めていた。もちろん人望だけではなく、数々の試験や面接をクリアしたのだろうが、それを充は知らない。
「うん……もうちょっとしたら頑張る」
翠はそう言って、また布団の中にもぞもぞと戻っていく。
「じゃあ、行ってくる」
充は眠り姫の額にそっとキスをして、彼女の部屋を後にした。
◆場面転換――キャンパス内
教室は閑散としていた。
五〇人は収容できるであろう中規模教室に、ポツポツと学生がお互いに離れて座っている。
講義の内容としては、高齢な教授がぼそぼそと数学史について語るだけの、特に出席を取るでもなく、課題を課すでもない一般教養の講義である。しかも月曜一限となれば、この出席率にもうなずける。
充の友人らも、履修登録だけして講義には出てこない者がほとんどである。試験の情報さえ仕入れれば講義に出ずとも単位が取れる(通称ラクタン)との噂である。そんな中、充は彼らに流されるでもなく、律儀に出席をしていた。
充が格別真面目な人間だから、という訳ではない。充には明確な行動原理があった。
「やりたいことを思いっきりする。その他のことはほどほどに」
これは、充の敬愛する祖父が、幼いころの彼に言ったことである。その祖父は現在消息不明だが、昔から放浪癖のある人なので、充を含め親族は誰も心配していない。
「聖書では、『はじめに神は天と地を創造された』とあります。すなわち、はじめには神がすでにあったわけであります。はじめは一であって、何も無かった時などないのです。そういうわけで、ゼロの概念はキリスト教圏ではなかなか受け入れられなかったわけです……」
ほほう、と充はうなずき、参考文献をメモする。あとで附属図書館に行って借りよう。
「今日はここまで。続きはまた来週」
二限は空きコマだったので、附属図書館の自習室で少しばかり語学の勉強をしてから、クラスの友人ら二名と連れ立って学生食堂へ昼食をとりにいく。昼休みの学食が混むことはわかっているので、いつもできるだけ時間をずらすようにしている。
まだ昼休み前ということもあって、広い学食内は閑散としていた。
窓際の明るい席を陣取る。
「んでな、妹が観光したいからって俺のアパートに泊まりに来るんだよ。そこで君らに頼みがある」
友人の一人、ロン毛の田山が言った。意図的なロン毛すなわち長髪なのかもしれないが、いまいちお手入れが行き届いている様子もなく、絶妙に似合っていなかったが、もちろん充はそれを指摘したり、ましてや散髪を勧めたりはしなかった。
「何?」
もう一人の友人、坊主頭の小坂が話を促す。こちらの坊主頭は、坊主頭以外の髪型が想像できない程度には似合っていた。いかにも高校まで野球をしていましたと言う雰囲気を醸し出している。だが、大学ではテニス部に入ったらしい……。
「わが部屋に散乱する桃色文献を――いや、お前たちには包み隠さず言おう――エロ本たちを、一時的に預かってほしいのだ! こんなこと、親友である君らにしか頼めないんだ!」
「よかろう」
小坂は即答する。充は口をはさむ暇もなかった。
「それで、お前の妹は何歳だ?」
「十七だけど……」
「ふむ、アリだな」
「いや、誰も紹介するとは言ってねぇよ!」
何やらニヤニヤとうなずく小坂から、田山は数歩後ずさる。
「こいつに借りを作るのは危険だ……」
「JK! JK!」
大興奮する小坂。ドン引きした田山は充に助けを求める。
「なぁ本間、やっぱり小坂は信用できねぇよ」
二人とは一回生の頃からの仲で、これはお決まりのコントみたいなものだった。
「妹思いだな、田山は」
充は微妙に話題を逸らす。自分の部屋に大量のエロ本を輸入して、翠に見つかっては具合が悪いと考えたのだ。彼女はそういうものに対してあまり耐性が無いような気がした。実験してみたことなどないが。
「そうか? そんなことないと思うけどな」
「妹が泊まりに来るって時点で結構仲いいほうじゃねえの?」
いささか落ち着きを取り戻した小坂も言った。
「いやいや、ホントに格安で便利な宿泊所くらいにしか思ってねェから。あいつ、オレの髪の毛のことキモロン毛って言うんだぜ? ひどくね?」
「「い、いや……それは事実だから……」」
「なん……だと……?」
声をそろえて言う充と小坂に、田山はおおげさに驚いて見せる。これもお決まりの流れ。
「いいな、いいなぁー。オレも可愛い妹に泊まりに来てほしいなー」
「誰も可愛いとは言っていないが」
「可愛くないのに妹を名乗っていいのか?」
「お前は何を言っているんだ……」
充は、真顔で言う小坂にやや引きである。
「まぁそれは冗談だけどさ、『非妹持ち』としては夢と希望と憧れがあるわけよ」
「『妹持ち』ってなんだよ。勝手に名詞を作るな」
「じゃあなんとお呼びすれば……」
「『妹所有者』……?」
真剣に考え込む小坂に充がふざけた助け舟を出す。
「すごい犯罪臭がするぜ、その単語……」
田山は呆れ顔。
「犯罪で思い出したんだけど……」
小坂が不穏な発言をする。
「イトコって漢字で書くとエロいよな。従妹、従姉、従姉妹。従う姉妹だぜ」
「お前は想像力がたくまし過ぎて恐ろしいよ」
田山が肩をすくめる。
「どうだ、これが『非妹所有者』のイマジンだ!」
「なんですっげードヤ顔なんだよ……」
こんな感じで、今日のランチタイムも平和だ。
本格的に昼休みが始まり、食堂内がガヤガヤと込み合ってきた。
彼らと別れてから、充は一人次の教室へ向かった。
――と、その時である。
いまだかつてない感覚が彼を襲った。
世界のネジが外れて、何かがずれてしまったかのような違和感。
世界から人間というものが消えてしまったかのような静寂。
現に彼の周りからは、人の姿が消えていた。
それでも充は落ち着いたまま、ゆっくりとこの世界を観察した。
一応彼がさきほどまでいた大学構内の形をとってはいるが、今この世界においては、その見え方が違っていた。
赤と青のフィルムを通して覗いた、できそこないの3D映像を見ているような感覚だった。赤と青が交じり合い、平面の重なり合う不完全な立体で、世界が表現されている。
「――ついに来たか」
彼は誰もいなくなった世界で、ひとりつぶやく。
「じいちゃんの言っていた通りだ。それなら、僕のすべきことは決まっている」
充は走り、建物から出た。校門の近くに止めておいた相棒のロードバイクにまたがる。バイトでせっせと稼いだお金で買った、白い自転車である。高いサドルに、下に向かって大きく曲がったドロップハンドル。軽い車体。愛機と呼ぶにふさわしい機体である。
ロードバイクの詳細はさておき、充は決意を口にする。
「リアルを、取り戻しに行かないと――」
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