第2話 行方不明の辺境伯
ヘンリはオルデンブルク城から姿を消した。
アデライドはヘンリの行方を、家令や執事、侍女長などに尋ねてみるのだが、笑顔とともに「ご心配なく」と言われてしまうのだった。
季節は初夏。
アデライドは白いモスリンの軽いドレスを着て、オルデンブルク城の中庭を歩いていた。
ふわふわした赤毛はハーフアップにして、後ろは自然に背中に流すのだ。
そんな装いをしていると、まだ少女のようにも見えた。
侍女のアンヌが白のパラソルを持って、アデライドに付き添っている。
「ねえ、アンヌ。あなたも閣下がどちらに行かれたか、聞いていない?」
「聞いておりません」
アンヌはそう答えると、ほっと息を吐いた。
「……奥様は失礼ながら、二十三歳の行き遅れ。辺境伯様のように、立派な地位のあるお方にもらっていただいて、わたくしはとても感謝しておりましたのに。辺境伯家は、同じ伯爵家とはいえ、別格でございます。国境を守る大変なお役目を果たしておられる方でございます。奥様も、辺境伯領について学んでください。お嬢様は決して———愚かなご令嬢ではなかったはず」
アンヌには子どもの頃から、ずっと世話をしてもらっている。
亡き母の存命中を覚えているアンヌは、アデライドの生家であるレンヌ伯爵家でも古株の侍女だった。
たとえ行き遅れと言われても、アンヌの思いやりがわかっているだけに、反論の言葉もない。
アデライド自身も、自分の態度には、こっそり反省することしきりだったからだ。
そんなアデライドの様子に、アンヌも厳しかった表情を緩めた。
「奥様、退屈していらっしゃるのでしょう? 少し、領地を見ていらっしゃいませんか? 閣下も町に出てもよいとおっしゃっていたのでしょう?」
「ええ。ちゃんと護衛を連れて行けとおっしゃっていたわ」
「わたくしが家令のベルトンさんに話してまいりますわ。奥様はこのオルデンブルク辺境伯家の女主人になられたのですから。外を歩かれるのも良いことです」
***
家令のベルトンがすぐに馬車を手配してくれた。
「この辺りには眺めがいい場所も多いんですよ。ここから緑の丘陵地帯を走って、国境沿いの防壁を見てきましょう。それから町に入って、お店を見たり、カフェで休憩なさるといいのでは?」
ベルトンはガイド役にと若い女性の見習い騎士を、その他に護衛として騎士を四人付けてくれた。
オルデンブルク城を出ると、一気に視界が開け、一面の緑の丘が広がった。
所々に白い、ふわふわしたものが動いている。
女性の見習い騎士が、まめに説明をしてくれた。
「羊ですよ。ヤギもいますけどね、オルデンブルク辺境領では、毛織物が盛んです。町に着けば、たくさんのお店も見ることができますよ」
アデライドは景色の美しさに目を見張る。
遠くに延々と長く続く石造りの壁が、防壁だろうか。
「窓を開けてもいいかしら?」
アデライドが尋ねると、見習い騎士はにこにこしながら、馬車の窓を開けてくれた。
気持ちのよい風が入ってくる。
温かな、お日様の匂い。
それに、緑の草の匂い。
アデライドは目を閉じて、息を吸い込んだ。
「とてもきれいなところね。あの緑の中を歩いたら、きっと気持ちがよいでしょう」
「領主様がお戻りになったら、ピクニックでも、遠乗りにでも連れて行ってもらうといいですよ。領主様は領地のことは何でもご存知ですからねえ。いい場所もご存知のはず。あ、領主様というのは、閣下のことですね。皆、領主様と呼んでいます」
「まあ」
アデライドは目を見張った。
しかし、肝心の領主様である夫はどこかへ出かけてしまって、いつ戻ってくるかもわからないのだ。
アデライドが困った顔をすると、見習い騎士は明るく笑った。
「奥様。そのうちお戻りになりますよ。ご心配なく」
ご心配なく。
ここでもまた同じ言葉を言われた。
でも、ここまで何度も言われるからには、もしかして、本当にそうなのかもしれない。
アデライドはこくん、とうなづいた。
「あ、町に着きましたよ。商店街を少し歩いてみますか?」
結果として、思った以上に楽しい外出になった。
ともかく、人々が皆、気さくで親切なのだ。
騎士に囲まれて歩いていても、アデライドは次々に町の人々に声をかけられる。
アデライドがヘンリの妻であるとわかると、誰もが「奥様」「奥様」と声をかけるのだ。
皆でわいわい話しながら、次はこの店、次はここ、とあちこち歩いていると、ぜひうちにも来てくれ、と言われる。
ヤギのチーズを試食したり、美味しいパンをお土産に持たされたり。
オルデンブルク領は蒸留酒の名産地だとかで、蒸留所に連れて行かれた時には、さすがに酔ってしまっては、と試飲は断ったのだが、ぜひ次回は領主様と寄ってくれと言われる始末。
「皆さん、とても親切なのね」
アデライドが驚いて言うと、騎士達はワハハ、と笑った。
「これでも控えめな方です。奥様がとても洗練されておきれいなので、皆遠慮しているんですよ。慣れたら、この十倍は人懐こくなるでしょうね。オルデンブルク人は田舎者と言われますが、いい人達なんです。この親切で人懐こいのは、オルデンブルク気質ですね」
「じゃあ、閣下も……?」
おそるおそるアデライドが言うと、騎士達は皆、一斉にうなづいた。
「もちろんですよ!!」
一行は、一軒のお店の前に着いた。
「さあ、ではお時間的に、ここが最後かな。どうぞ、ぜひオルデンブルク特産の毛織物をご覧になってください」
そう言われて入ったお店に、アデライドは心を奪われてしまった。
「まあ……!! なんて可愛いの!?」
所狭しと置かれた毛織物の布地に、既製服、ブランケットやショール、マフラー。
キッチンやリビング小物まで。
すべてが、チェック柄なのだ。
温かな赤、鮮やかな緑、優しいクリーム色、愛らしいピンク。
さまざまな色合いは、まさに色の洪水。
そして、どれもが、チェック、チェック、チェック!
「このチェック柄の毛織物こそ、我がオルデンブルク領の特産なのです!!」
見習い騎士が胸を張って、誇らしげに叫んだ。
皆、うんうん、とうなづいている。
騎士達も、お店の売り子も、奥に控える店主とおぼしき女主人も。
アデライドと侍女のアンヌは顔を見合わせた。
「何て可愛いんでしょう。でも不思議ね」
アデライドはふと思った。
「わたくしの寝室では、このチェック柄を見かけなかったわ」
「さようでございますね、奥様」
その時、店主がそっとアデライドに声をかけた。
「実は……奥方様のお輿入れの前に、領主様からご注文をいただきまして」
店主は優しく微笑みながら言った。
「アデライド嬢は、家族を離れ、王都を離れ、わざわざ辺境に来てくださるのだ。ホームシックにならないように、寝室のファブリックはすべて、王都から最高のものを選んで使いたい、とおっしゃったのです」
アデライドは思わず口もとを押さえた。
「え……?」
「頑張って良いお品を王都から仕入れさせていただきました。何かご不便なことなどありましたら、すぐ対応いたしますので、お知らせくださいね」
「あ、ありがとう……」
アデライドは礼を言って、店を出た。
城に帰る道中も、アデライドは静かだった。
(わたくしったら……そんなに心遣いをしてくださった方に、あんなことを言ってしまったのね)
アデライドの心は、沈んだ。
***
「奥様、領主様からお届けものでございます」
そう言って、ヘンリの従者が差し出したのは、きれいにラッピングされた箱と、その上に載せられた手紙だった。
『愛する妻アデライドへ。新婚早々、あなたを一人にしてすまない。国王陛下の命を果たしている。終わり次第すぐ戻る。退屈はしていないか。不自由なことがあれば、家令のベルトンに言いなさい。あなたの夫、ヘンリより』
箱の中に入っていたのは、小さな細工物のブローチだった。
国花のアザミをモチーフにした、紫色の宝石を使ったブローチ。
この国では、結婚して最初にアザミのアクセサリーを妻に贈る習慣がある。
まさか、あのマッチョゴリラがそんなことを知っていたとは。
アデライドが驚いてブローチを見つめていると、ふと、従者がにこにこしながら待っていることに気がついた。
「奥様、領主様に、お返事を書かれますか? お待ちいたしますね」
アデライドは絶句した。
「そ、そうね? では、簡単に、すぐお返事を」
アデライドはしどろもどろになりながら、手紙を仕上げると、従者に持たせた。
そして、ほっとしたところ———。
それから数日おきに、アデライドの元に手紙とプレゼントが届くようになったのだった。
ヘンリは姿を見せないくせに、せっせと手紙と贈り物が届く。
そんなある日のこと。
従者はアデライドのもとに、香水を届けた。
「これ、最新流行だわ。しかも最高品質」
アデライドは美しいガラスのボトルに、そっと鼻を近づけた。
バラにマグノリア、オレンジ、それにジャスミンの香りがミックスされている。
しかし、妙に女心のツボを押さえた手紙と贈り物に、あらぬ妄想が湧き上がった。
『辺境伯閣下、奥様には、こんなものをお送りしておけば、安心ですわ。王都の最新流行のお品ですのよ?』
『ニキータ、気がきくな。ふふふ、おぬしは可愛いのう。それ、もっと
(ニキータって誰!)
(ヘンリ様、どこのお代官様なのよ!?)
アデライドは自分の妄想に頭を抱えた。
(……まさか、『夜の剣豪』になっているのでは!?)
アデライドは暴走する妄想を抑えるのに苦労しつつ、ヘンリに手紙の返事を書いた。
***
実際はこの頃、ヘンリは亡き母の姉、王家の血を引く貴婦人であるマルゴ・ブランシュ侯爵夫人のところで、厳しい修行(?)をしていた。
「ベストセラーの宮廷恋愛小説音読! 女心を学びなさい!」
「ぎょえー!!」
「ダンス特訓! 夫人と同じサイズの女性を練習相手として用意しましたわよ!」
「ぎょえー!!」
「ラブレターの書き方! 今日も宿題として、夫人に一通、書いてもらいますよ。明日、添削しますから、それからまた書き直すように」
「ぎょえー!!」
「テーブルマナー! お肉にばかりがっつかないこと!」
「ぎょえー!!」
「ファッション講座! 夫人にドレスを作る時の注意事項は!?」
「ぎょえー!!」
「贈り物講座! 夫人にぴったりな宝石を選びなさい!!」
「ぎょえー!!」
「よし。本日はここまで。頑張りましたね。庭で剣の稽古をしてよし」
「は。伯母上、ありがとうございます!」
コンコン。
その時、ドアを叩く音がした。
「失礼いたします、ヘンリ様。奥様からお返事をいただいてまいりました」
「!!」
ヘンリは従者から手紙を引ったくった。
最初は宿題で嫌々手紙を書いていたヘンリ。
しかし、律儀なアデライドは毎回、短いがかならず返事を寄越す。
流麗な筆致に、ユーモアの漂う文章。
アデライドの聡明さがうかがえるような手紙が返ってくる。
いつしか、アデライドからの返信が楽しみになっていたヘンリだった。
「ヘンリ、夫人は何とおっしゃって?」
「はい、城のヤギが子どもを産んだと。中に一頭、真っ黒なオスのヤギがいて、ヘンリと名付けたと…………何でも特別大きくて、重くて、乱暴者なのだとか」
「…………」
意味ありげに甥っ子を見るブランシュ侯爵夫人だった。
「コホン。たしか今回は、最新流行の香水をお贈りしたのでは?」
「はい、そうです」
ヘンリ、真っ赤になって、両手で顔をおおってしまう。
(その返事が、ヤギ? しかもヤギに俺の名前を付けたのか。……おおらかな方だ)
手紙の文面を覗いて、ブランシュ侯爵夫人も笑う。
熱心にヤギの出産について書いたアデライドの手紙。
ヘンリは苦笑しながらも、そっと、大切に胸ポケットにしまったのだった。
(すごい女が来たって、ヘンリが真っ赤になって怒鳴り込んで来た時はびっくりしたけど……お似合いの二人じゃないの?)
ブランシュ侯爵夫人は思った。
(家に帰る、いいタイミングね)
愛する甥っ子ににっこりと微笑む。
「ヘンリ、もうお帰りなさいな。夫人が寂しがっていますわよ。ヤギのヘンリもね」
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