【短編】つま先にキス〜辺境伯は可愛い妻のつま先に愛をささやく〜

櫻井金貨

第1話 初夜

「私、ヘンリ・フォン・オルデンブルクは、アデライド・レインを妻とし、

喜びも、悲しみ、苦しみも共に分かち合い、貴女を永遠に愛することを誓います」


「わたくし、アデライド・レインは、ヘンリ・フォン・オルデンブルクを夫とし、喜びも、悲しみ、苦しみも共に分かち合い、貴方を永遠に愛することを誓います」


「誓いのキスをどうぞ」


「…………」

「…………」


「ふう。……わたくしの口元にキスするフリをなさいな。ちょっと顔を傾けてさしあげます。あなたの顔が大きいから、参列者からは本当にキスしているかは、見えませんわ」


「……よかろう」


「お二人の結婚が成立したことを宣言します」


 こうして、無数の透明なガラスビーズが縫い付けられた、銀色に輝くウエディングドレスを着た社交界の華、ふわふわの赤毛がトレードマークのアデライド・レイン伯爵令嬢は、九歳年上のヘンリ・フォン・オルデンブルク辺境伯と結婚した。


***


 初夜のベッド。

 白一色の高級そうな寝具で統一された大きなベッドには、白やピンクのバラの花びらがロマンチックにまかれている。


 ヘンリが寝室に入ると、白のナイトドレスに着替えたアデライドが、ベッドの上に腰をかけていた。

 ギャザーが寄せられたナイトドレスの胸もとを結んでいるのは、水色のリボンだ。


 自然に下ろしたふわふわの赤毛が可愛くて、髪を結い上げたウエディングドレス姿の時の、きりっとしたアデライドの姿との違いに、ヘンリは一瞬、どきっとした。


 ヘンリは軽く一呼吸して、口を開く。


「さて、アデライド嬢」


「はい? 結婚した以上、アデライド嬢はどうかと。いきなりアデライドと名前呼びするのも何ですから、しばらくは『夫人』ではいかがでしょう」


「呼び名もそうだが。王命を断れずに結婚した以上、夫婦で話し合って、着地点を決めなければならない。それが夫婦円満の基礎だからな」


「……それはねやの回数だったり、そもそもねやをするかどうか、あなた様が愛人を何人お持ちになるか、といったことですね?」


 ベッドに座るアデライドを見下ろして、ヘンリはため息を押し殺した。


 大柄で屈強な男が多いこの辺境伯領でも、ヘンリは目立って大きな男だった。

 肌は日に焼け、髪は黒。青い瞳は美しいのだが、鼻も、あごもがっちりとしてすべてが男らしいヘンリに、「きれいな目をしていますね」なんて言う人間はいなかった。


 そのヘンリは今、清楚な白いナイトドレス姿のアデライドを前に、どこに目をやればよいのかわからず、困惑しながら口を開いた。


「まず、あなたの希望を聞こう」

「あなた様は、わたくしを愛するおつもりは、ありますの?」


「あなたこそどうなのだ。何人も崇拝者がいたと聞いている。彼らとのを今後も続けたいのか?」


(彼らとの? ずいぶん思わせぶりなことを言うのね? 未婚の令嬢であったわたくしに愛人がたくさんいる、とでも?)


 アデライドはむっとした。

 貴族の名誉は心得ている。

 今まで、伯爵令嬢の名に恥じることは一切したことはない。


(あなたがわたくしをそんな女だと思うのなら。そう振舞ってさしあげましょう)


 むんず、と可愛らしい白のナイトドレスの裾をつかんだ。

 そこで一呼吸おいてから、するりとたくし上げる。


「!?」


 ヘンリの正面に、アデライドの白く、すんなりとした右足が露わになる。

 アデライドは見せつけるように、美しい足を伸ばした。

 そのつま先には、淡いピンクの愛らしい爪が、まるで真珠のように輝いていた。


「お、おいっ! 一体、何の———」

「わたくしが愛人達と楽しくやってきた女だとして。では、あなたはそんなわたくしを愛するおつもりは、あるのですか?」


 ヘンリは驚いてアデライドを見つめる。


「あなた様がわたくしに本気になるなら、証明してくださいませ。わたくしのつま先にキスしてくれたら、あなたの本気を、受け取ってあげますわ、


「!!!」


 ヘンリは衝撃で固まった。

 その顔色は赤くなったり、青くなったりと忙しい。


(お嬢様……!! ねや教育では、そんなことを教えていませんよっ……!!)


 その頃、隣室に控えていた、アデライドが生家から連れてきた侍女アンヌは真っ青になっていた。

 寝室での会話は筒抜けである。


「何という女だ!! たしかに美人で色気はあるが、とんでもない気の強さ! 赤毛の女は気が強いというのは、本当だったらしいな!」


「偏見だわ! 全世界の赤毛の女に謝罪しなさい!! 貞淑で控えめな赤毛の女だっているのよ!?」


「おまえを除いてな!」


「何よ、あなただって、マッチョゴリラの辺境伯って有名じゃない! ガサツで野蛮、体が大きくて重いから、普通の馬は潰してしまうんですってね? ゴリラにぴったりの、特大の馬を用意しているそうじゃないの!」


「…………」

「……え?」


(言い返さない、の?)


 ヘンリはただじっと、黙ってアデライドの前に立っている。

 アデライドは急に、悪いことを言ってしまった……という感覚に襲われた。


「それには反論しない。事実だからな。俺はガサツで体も大きい、マッチョゴリラの辺境伯だ。優雅なことは何もできず、戦場を駆け巡るしか能のない男だ」


 ヘンリは淡々と言うと、くるりと後ろを向いて、歩き始める。


「しかし。俺は誇りに思っているぞ。王都の優雅な貴族どものためだけでなく、辺境で国境防衛に当たることで、大勢の罪のない平民達の暮らしを守ることができるのだからな」


「あ、あの……」


 アデライドの目が右に、そして左に、と泳ぐ。


「夫人。城の中では、好きに過ごせ。ただ、街中に行く時はかならず家令に相談しろ。護衛をちゃんと付けるように。野蛮な辺境伯領には、荒っぽい男どもが多いからな。むやみにつま先なんて見せるなよ」


 そう言い終えると、ヘンリは寝室から出て行った。

 その時になって、アデライドは、ヘンリが結婚式の衣装をそのまま着ていたことに、気がついた。


「閣下……!」


 アデライドは急いで寝室の外に出る。


 たしかにあれは売り言葉に買い言葉。

 自分も悪かった。


 王命での政略結婚。

 結婚式で初めて会って。

 それでも、彼は彼曰くの『夫婦の着地点』を訊いてくれたのだ。


 それはもちろん、夜の夫婦生活のことばかりではなかったはず。


 これからのことを話すチャンスだったのに。

 お互いのことを知るチャンスだったのに。


 まじめな彼は、だからこそ、夜着に着替えずに、式の時の服装のままで来てくれたのだろう。


「ごめんなさい……」


 アデライドはナイトドレス姿で、廊下に立ち尽くした。


「お嬢様、お体が冷えてしまいます。さ、お部屋に戻りましょう」


 侍女のアンヌが見かねて隣室から姿を現した。

 アデライドの肩を抱いて、寝室へと連れて行く。


 その夜、ヘンリはどこへ行くとも言わないまま、城を出て行ってしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る