隣の席の花千代さんは、爪を切りたくても鼻ちょうちんを作っている。

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

隣の席の花千代さんは、爪を切りたくても鼻ちょうちんを作っている。

「沖田くん。お願いなんだけどわたしの足の爪、切ってくれないかな」


 そろそろみんな夏服から冬服に切り替え終えたくらいの季節。普段通りの中学校の、普段通りの休み時間。

 隣の席の花千代さんが唐突に、本当になんの前触れもなくそんなことを言ってきたものだから、僕は完全に硬直してしまった。


 花千代さんはじっと僕を見つめて、僕の返事がないのを疑問に思ったのかこてりと首をかしげて、それからまた口を開いた。


「沖田くん。お願いなんだけどわたしの足の爪、切ってくれないかな」


「いや聞こえてるよ。聞こえてないとかじゃないよ。そうじゃなくていきなりなんでそんなこと言い出すのかって」


「すぴー」


「寝てるし」


 花千代さんの鼻から鼻ちょうちんがふくらんできて、僕の目の前でぷわぷわとゆれた。


 花千代あかり。中学に上がってからずっと、僕の隣の席にいる。おかっぱ髪とあんまり表情の変わらない様子からこけしってあだ名されたりもするけれど、よくよく見ればかわいい顔立ちをしてると思う。そう思うのは、僕が花千代さんを好きだからかもしれないけど。


 鼻ちょうちんがぱちんと割れて、花千代さんがはっとびっくりしたように目を覚ました。

 そうしてから僕の顔を見つめて、また口を開いた。


「沖田くん。お願いなんだけどわたしの足の爪」


「いやもう通じてるから。伝わってるから。同じことしか言わないゲームのNPC?」


 このままだと延々同じ言葉を聞かされて休み時間が終わりそうだ。そういう時間の使い方も有意義な気がちょっとだけしてしまうのが、自分で気持ち悪いなって思うけど。


 ともかく話が進まないし、理由を教えてもらえるよううながした。

 花千代さんはひざの上にお行儀よくグーの両手を置いて、まじめな顔をしてわけを語った。


「爪切りってさ、夜にしちゃいけないっていうでしょ」


「まあ、言うね。親の死に目に会えないとかなんとか」


「そうすると、爪を切るタイミングって、学校から帰ってきてから日が落ちるまでの何時間かしかないでしょ」


「まあ、平日に切ろうと思ったらそうだね」


「でも学校から帰ってきたら、まず何時間か昼寝しちゃうでしょ」


「まあうん……花千代さんの場合はそうなんだろうね」


「なんなら下校途中から寝ながら歩くくらいでしょ」


「それは花千代さんだけじゃないかなあ」


「だから爪を切ろうと思ったら、学校にいるうちに切るしかないってなるでしょ」


「なるかな……なるかも……」


「でもそもそもわたし、一人で爪を切るなんて単純作業してたら、間違いなく途中で寝ちゃって危ないでしょ」


「自覚あるんだね……というか花千代さん、日常生活をまともに送れてるのか心配になるよ」


 そして花千代さんは表情を若干ドヤらせて、言いはなった。


「だから沖田くんに切ってもらえば、万事解決だと思うの」


「名案みたいな感じで僕に丸投げしてくるの、やめてくれないかなあ」


「ダメ?」


「ダメっていうか……なんで僕が……」


 花千代さんはしょんぼりとうつむいた。


「だって、こういうの頼れるの、沖田くんしかいないと思うから」


「やらせていただきます」


 くっ。僕にしか頼れないなんて、そんなこと言われたら、断れるわけないじゃないか。ほれた弱みってやつじゃないか。


「じゃ、これ爪切りだから。あとはよろしく……すぴー」


「寝たし」


 花千代さんはお行儀よく椅子に座った状態のまま、首をかくんとうつむかせて鼻ちょうちんを作った。両足をこちらに投げ出して。

 え、ちょっと待って。花千代さん、上履きもソックスもはいたままなんだけど。これもしかして、僕が脱がさなきゃいけないの?


「え、は、花千代さーん……脱がしちゃうけど……いいのー……?」


「すぴー」


 花千代さんは無防備に寝ている。

 じゃあ……仕方ないか。僕が脱がすしかないか。

 いや、靴と靴下だけだからね。足元を脱がすだけだからね。いくら花千代さんが無防備だからって、学校で変なことしないからね。いや学校じゃなくてもしないけど。


 すー、はー。精神集中。床にひざをついてかがんで、花千代さんの足に手をかける。

 まずは上履き。足首の、靴と花千代さんとの境目に指を入れて、新鮮なゆで卵の殻をむくみたいにそっと引きはがしていく。


「すぴー……すぴひょー……」


 続いてソックス。入り口のところに指を差し込んで……あっ今僕、花千代さんの素肌に触ってる……いやいや集中集中、すーはー……あっ花千代さんのにおいがする……


「すぴひょー……すーぴぽー……」


 そろり、そろり、ソックスを下ろす。下ろしきる。

 うわあ、花千代さんの素足が出てきた。普段は上履きに隠れてて見る機会なんてない、花千代さんの裸足。

 僕の足よりちっちゃい……爪もまるっこくてなんかかわいいな……というかこう、手で持ってると、花千代さんの肌のすべすべした感触がじかに感じられて、なんだろうすごくドキドキする……


「すーぴ、ぽー……ぽけきょ……」


 いやいや、何を足の観察なんてしてるんだろう。僕の役目は爪を切ることなんだ、ちゃんと役目を果たして、花千代さんの期待に応えなきゃ。

 そうしたら花千代さん、僕のこと気に入ってくれるかな。そうしたらもっと距離が近くなって、なんなら好きになってくれて、そうしたら……


「すっぴっひょー」


「いや、鼻ちょうちん邪魔」


 うつむいた花千代さんの鼻から焼いたおもちみたいに鼻ちょうちんがふくらんできてて、爪を切るのに絶妙に邪魔してきていた。

 うーん、どうしようかな。割りたいけど、そうしたら花千代さん起きちゃうかな。気持ちよさそうに寝てるんだし、寝かせてあげたいな。

 仕方ない、体をもっとかがめて、鼻ちょうちんの下をくぐるようにしてはいつくばって足の爪を……


 と、やっていた瞬間、鼻ちょうちんがぱちんと割れた。


「ふがっ……ふあああ……」


 鼻ちょうちんが割れた衝撃で、花千代さんは目を覚まして、そして僕に顔を向けた。


 現在、僕の姿勢。花千代さんの足のすぐそばで、床にはいつくばっている。その状態で、鼻ちょうちんが割れる音に反射的に顔を上げて、花千代さんと見つめあってる。

 一方で花千代さんは椅子に座ってて、服装は学校なんだから当然制服でスカートをはいていて、そのうえで見上げた僕の視界には、ちょうど花千代さんのひざや太ももが入るわけで。


「あの、違います花千代さん、そういうのじゃなくて、僕はただ爪を切ろうとしてただけで、やましいことはいっさいしていなくて」


 花千代さんはよく分からないというふうにこてりと首をかしげた。

 そこでチャイムがキーンコーンカーンコーンと鳴った。

 花千代さんは教室前のスピーカーを見上げて、それから自分のつま先に目をやった。


「爪を切るの、間に合わなかったんだね」


「あ、はい、すみません……期待に応えられず……」


 なんとなく正座をして敬語で返した僕に対して、花千代さんはなんにも気にしてないみたいにソックスをはき直した。


「授業の間の休み時間って、短すぎるよね。毎回二時間くらいあればいいのに」


「それは一日が学校だけで終わっちゃうと思う」


 花千代さんは上履きもはいて、それから僕にたずねてきた。


「放課後に、またお願いしていいかな。それなら何時間かかっても大丈夫だから」


「え」


 ぽけっと見上げた僕に向けて、花千代さんはにこりと笑顔を向けてきた。


「わたしは、きっとずっと寝ちゃって起きないから。沖田くんに、全部任せるよ」


「え」


 教室に先生が入ってきて、沖田ー席につけーと声をかけてきた。

 僕はうわの空の状態で、席に座って授業を受けた。

 すぴすぴと鼻ちょうちんを作る花千代さんの隣で、僕の頭の中は、放課後もずっと花千代さんといられることと、さっき見た花千代さんの素足、そしてそれを全部任されるということで、いっぱいだった。

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